オースター『4321』を読む(2025/5/6)

 年末には空いた時間で気軽に読むことができる本を何冊かまとめて手元におくことが多いのだが、今年は、クリスマスあたりに書店で見つけた、たぶん厚みにして5センチくらいはありそうな、ポール・オースターの『4321』を読むことにした。それは、まさに終わりを迎えようとしている2024年の春にオースターが死んだからというのもあったし、『4321』がまだ翻訳されていない2020年頃に、『4321』というタイトルに引かれてこの本のことを記憶していたからというのもあった。人の生死を予見することなどできないので当然のことではあるのだが、2020年の私はまだ、4年後にオースターが死ぬとは少しも思っていなかった。

 年末か、おそくても年始には読み終わるだろうという予想に反して、最後のページを読み終えたのは3月に入ってからだった。内容が難しいとか、文章が読みにくいとかいうのではけっしてない。むしろ、オースターは天性のストーリーテラーさながら、読む者を一度つかんだら離さないような物語と言葉を絶え間なく紡いでいく。私は他の本を読んだり、現実の生活に追いまわされたりしながら、少しずつ『4321』を読んだ。物語の舞台は、主人公であるファガーソンが生まれた1947年から、ジェラルド・フォードとネルソン・ロックフェラーがそれぞれ大統領と副大統領に就任した1974年までのアメリカだ(オースターはなぜこのラストシーンを選んだのだろう?重たいものが胸にのしかかる)。ちなみに1947年は、著者であるオースター自身が生まれた年でもある。

 物語の主人公はファガーソン一人だが、物語には四人のファガーソンが登場する(何も知らされないまま読みはじめると混乱するけれど、読み続けるうちに次第にそれがどういうことか理解し、受け入れることになると思う)。四人のファガーソンは1947年、おなじように生を受けるのだが、些細な選択や偶然の積み重ねによって、まったく違う人生を歩むことになる。あるファガーソンは思いもよらぬときに突然生命を断ち切られ、また別のファガーソンは人生を変えてしまうような大失恋をする。そして、まったく違う人生を生きているにもかかわらず、四人のファガーソンは皆ファガーソンなのだ。60年代に青春を過ごしたファガーソンたちは、公民権運動、ケネディ暗殺、ベトナム反戦運動などの狂乱の中で、自分の目でものを見て、自分の言葉で何かをつくり出そうともがいているように見える。

 断続的に読み進めたせいで、また、物語があまりにも長大なせいで、私はしばしば四人のファガーソンの人生を混同し、物語のプロットの中に迷い込んだ。そして、物語を読み終える頃には奇妙な感覚に捉われていた。それは、私という存在、あるいは私自身の人生が振り子のように大きくぶれはじめ、いくつもの地点を行き来しながら一つの軌道を描いている、というような感覚だった。その感覚は、四人のファガーソンとファガーソンをとりまく人々、彼らが生きた時代、そこから生まれた無数の言葉と細部からもたらされたものだった。長い四重奏を聴いているうちに、私は現実には存在しないはずのものを幻視し、生きたことのないはずの時代と人生を生きていたのだ。しかしそのとき私が見たもの、私を捉えた感覚こそが、何か本当の現実なのかもしれなかった。本を閉じた後、どういうわけかそんな気がした。

(ポール・オースター『4321』柴田元幸訳、新潮社、2024年)