なぜ海外文学を読むのか/ハン・ガンのノーベル文学賞受賞の次の日に考えたこと(2024/10/12)

 お店の棚には海外文学がたくさんある。もちろん日本語で書かれたものもあるが、日本語ではない言語で書かれたものが、日本語に翻訳された本も多い。「翻訳書はハードルが高い」などと時々言われることがあるが、そんなことはないと私は思う。なぜなら、海外文学を読むとき、私たちは、自分にとって慣れ親しんだ言語ではない言語(日本語ではない言語)で書かれたものを日本語にした文章を読んでいるだけではなく、同時に、他の言語を通して、再び日本語に出会いなおしているからだ。

 先週紹介した『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』には、こんな文章がある。

 「翻訳された小説を読むとき、みんな、日本語になった海外文学を読んでいると思っている。もちろんそうなんだけど、それは同時に、海外文学をくぐってきた日本語を読むことでもある」(p135)

 著者の斎藤真理子は、その過程、つまり構文や語彙が異なる言語で書かれた物語を通過した日本語にできた「傷」によって、日本語は「拡張し、日々、新しい経験をする」(p135)と書いている。この言葉を踏まえると、翻訳とは、たんにある言葉を別の言葉に置き換えることではなく、そこに何か新しいものを出現させることだと言えるかもしれない。そして、これまで慣れ親しんできたものが新しいものとして目のまえにあわわれるとき、それは、現実を脅かす異物としてではなく、もはや目が慣れてしまった暗闇のような現実を照らす明かりとして存在するのではないだろうか。

 今年、韓国の作家、ハン・ガンがノーベル文学賞を受賞した。このような物語が、このような言葉が、ながく、繰り返し読まれ続けるのであれば、その物語と言葉を明かりとして、この世界は次に行くべき場所、次に可能な行き先を見つけることができるかもしれないと、ハン・ガン受賞の知らせを聞いて咄嗟に思った。

参照文献

斎藤真理子『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』創元社、2024年