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  • オースター『4321』を読む(2025/5/6)

     年末には空いた時間で気軽に読むことができる本を何冊かまとめて手元におくことが多いのだが、今年は、クリスマスあたりに書店で見つけた、たぶん厚みにして5センチくらいはありそうな、ポール・オースターの『4321』を読むことにした。それは、まさに終わりを迎えようとしている2024年の春にオースターが死んだからというのもあったし、『4321』がまだ翻訳されていない2020年頃に、『4321』というタイトルに引かれてこの本のことを記憶していたからというのもあった。人の生死を予見することなどできないので当然のことではあるのだが、2020年の私はまだ、4年後にオースターが死ぬとは少しも思っていなかった。

     年末か、おそくても年始には読み終わるだろうという予想に反して、最後のページを読み終えたのは3月に入ってからだった。内容が難しいとか、文章が読みにくいとかいうのではけっしてない。むしろ、オースターは天性のストーリーテラーさながら、読む者を一度つかんだら離さないような物語と言葉を絶え間なく紡いでいく。私は他の本を読んだり、現実の生活に追いまわされたりしながら、少しずつ『4321』を読んだ。物語の舞台は、主人公であるファガーソンが生まれた1947年から、ジェラルド・フォードとネルソン・ロックフェラーがそれぞれ大統領と副大統領に就任した1974年までのアメリカだ(オースターはなぜこのラストシーンを選んだのだろう?重たいものが胸にのしかかる)。ちなみに1947年は、著者であるオースター自身が生まれた年でもある。

     物語の主人公はファガーソン一人だが、物語には四人のファガーソンが登場する(何も知らされないまま読みはじめると混乱するけれど、読み続けるうちに次第にそれがどういうことか理解し、受け入れることになると思う)。四人のファガーソンは1947年、おなじように生を受けるのだが、些細な選択や偶然の積み重ねによって、まったく違う人生を歩むことになる。あるファガーソンは思いもよらぬときに突然生命を断ち切られ、また別のファガーソンは人生を変えてしまうような大失恋をする。そして、まったく違う人生を生きているにもかかわらず、四人のファガーソンは皆ファガーソンなのだ。60年代に青春を過ごしたファガーソンたちは、公民権運動、ケネディ暗殺、ベトナム反戦運動などの狂乱の中で、自分の目でものを見て、自分の言葉で何かをつくり出そうともがいているように見える。

     断続的に読み進めたせいで、また、物語があまりにも長大なせいで、私はしばしば四人のファガーソンの人生を混同し、物語のプロットの中に迷い込んだ。そして、物語を読み終える頃には奇妙な感覚に捉われていた。それは、私という存在、あるいは私自身の人生が振り子のように大きくぶれはじめ、いくつもの地点を行き来しながら一つの軌道を描いている、というような感覚だった。その感覚は、四人のファガーソンとファガーソンをとりまく人々、彼らが生きた時代、そこから生まれた無数の言葉と細部からもたらされたものだった。長い四重奏を聴いているうちに、私は現実には存在しないはずのものを幻視し、生きたことのないはずの時代と人生を生きていたのだ。しかしそのとき私が見たもの、私を捉えた感覚こそが、何か本当の現実なのかもしれなかった。本を閉じた後、どういうわけかそんな気がした。

    (ポール・オースター『4321』柴田元幸訳、新潮社、2024年)

  • なぜ海外文学を読むのか/ハン・ガンのノーベル文学賞受賞の次の日に考えたこと(2024/10/12)

     お店の棚には海外文学がたくさん並んでいる。もちろん日本語で書かれたものもあるが、日本語ではない言語で書かれたものが、日本語に翻訳された本も多い。「翻訳書はハードルが高い」などと時々言われることがあるが、かならずしもそうではないと私は思う。なぜなら、海外文学を読むとき、私たちは、自分にとって慣れ親しんだ言語ではない言語(日本語ではない言語)で書かれたものを日本語にした文章を読んでいるだけではなく、同時に、他の言語を通して、再び日本語に出会い直しているからだ。

     先週紹介した『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』には、こんな文章がある。

     「翻訳された小説を読むとき、みんな、日本語になった海外文学を読んでいると思っている。もちろんそうなんだけど、それは同時に、海外文学をくぐってきた日本語を読むことでもある」(p135)

     著者の斎藤真理子は、その過程、つまり構文や語彙が異なる言語で書かれた物語を通過した日本語にできた「傷」によって、日本語は「拡張し、日々、新しい経験をする」(p135)と書いている。この言葉を踏まえると、翻訳とは、たんにある言葉を別の言葉に置き換えることではなく、そこに何か新しいものを出現させることだと言えるかもしれない。そして、これまで慣れ親しんできたものが新しいものとして目のまえにあわわれるとき、それは、今目のまえにある現実を脅かす異物としてではなく、もはや目が慣れてしまった暗闇のような現実を照らす明かりとして存在するのではないだろうか。

     昨日、韓国の作家、ハン・ガンがノーベル文学賞を受賞したという知らせがとび込んできた。ハン・ガンの物語には歴史と他者への想像力が、その言葉には痛みと不思議な癒しの感覚がある。このような物語が、言葉が、ながく、繰り返し読まれ続けるのであれば、その物語と言葉を明かりとして、この世界は次に行くべき場所、次に可能な行き先を見つけることができるかもしれないと、受賞の知らせを聞いて咄嗟に思った。

    参照文献

    斎藤真理子『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』創元社、2024年

  • 「あいだ」にとどまる/『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』書評(2024/10/4)

     この本は、創元社「あいだで考える」シリーズの9冊目として刊行された。著者が翻訳した作品は、これまで私も10冊以上読んできた。私はそれらの作品を読むとき、日本語で読みながら、それが韓国語で書かれたものであること、つまり自分が読んでいるものが単に日本語でも韓国語でもないことを知っていた。著者は韓国の小説を翻訳しながら、「2つの言語と自分が同じトンネルに入っているような気がする」といい、同時に、「たまに、2つの言語がほんとに重なったと感じることもある」という(p5)。「「あいだ」は常に揺れているのだ」(p5)。

    「韓国語でも日本語でもない、いや何語でもあるし何語でもない、もしかしたら言葉でさえない、言葉になる前の何かを重層的に体験しているような」(p5)

     本書の構成※「序に代えてーー1杯の水正果を飲みながら」(p4)と「おわりに」(p150)、「韓国語と日本語のあいだをもっと考えるための作品案内」(p152)をのぞく

     1章 말(マル) 言葉

     2章 글(クル) 文、文字

     3章 소리(ソリ) 声

     4章 시(シ) 詩

     5章 사이(サイ) あいだ

     

    「昔から、この言葉を第二言語として学ぶ人は、口の中に起きる風に誘われて、気がついたらどこかちがう場所に立っていることが多かったのじゃないかと思う」(p11)

     1章の「말(マル)」の冒頭には、こんな言葉がある。私自身、K-POP、韓国文学などに触れるようになった数年まえから、この「風」と、「気がついたらどこかちがう場所に立っている」感覚に心を奪われている。著者が書くように、朝鮮語と日本語は「似ていてちがう」、「ちがうけど似ている」(p26)。「말(マル)」という言葉を日本語に訳すと「言葉」となるが、意味はおなじでも、そのニュアンスは異なっている。それは、「말(マル)」がそれぞれの歴史の中で形づくられてきたからであり、それらの歴史は当然、1910年から1945年までの日本による朝鮮半島への植民地支配と切り離すことはできない。

    「マルは話され、聞かれるもの。そしてクルは書かれ、読まれるもの。マルとクルで世界は回る」(p40)

     さらに、「말」にも「글」にも託せないものが人間にはあるのだと著者は言う。それが3章の「소리」につながっていく。「소리」は声、音である。たとえば、著者は韓国で暮らしはじめた頃、金属打楽器の音が「チェンチェン、チェンチェン」と聞こえ、「前なら、カンカン、カンカンと聞こえたかも」と思ったという。このように、朝鮮語の「소리」を学ぶことは、それまで唯一で自明のものとして目のまえにあった世界が、唯一でも、自明でもないことを教えてくれる。金属打楽器の音は必ずしも「カンカン」である必要はないのだ。

     また、「소리」は、著者によると、「音」や「声」であると同時に、「人の思いのたけを伝えるもの」 というニュアンスを持つ(p85)。「言えなかったマル、書けなかったクルを含む、広大なソリの地層」(p91)が存在しているのだ。「소리」はときに「시(詩)」であり、痛みであり、喜びである。そして、今、その「소리」のやりとりが、隣国とのあいだ(사이)で少しずつ交わされている。

    「韓国文学は今、日本で、それを必要とする人たちによって熱心に読まれている。これは朝鮮半島と日本の文化をめぐるこの100年の歴史の中で初めてのことだ。マルとクルとソリのやりとりは、始まったばかりの惑星群での経験である」(p130)

     実際に、著者が翻訳した作品を、あるいは著者の言葉を読みながら、私は過去と未来の間で、日本と朝鮮半島の間で揺れていて、そうやっているとき、何か幻のようにもみえる道、二つのうちのどちらでもあって、どちらでもない道が見えていた気がする。「「あいだ」は常に、生々しい「今」そのものだ」(p133)。私はこの言葉を読みながら、「今」は時間が過ぎればやがて過去になるが、それは未来にもなり得るとふと思った。それは、「今」を繰り返し生き続けていれば、その「今」がいつの間にか未来になっている瞬間が来るかもしれないという予感がよぎったからだ。だから私は、もう少し「사이(あいだ)」にとどまりながら、そこに絶えず新たな道ー幻のような、でも確かにその上を歩いてどこかに行くことができるー、その道の上で花開く言葉を、「人を殺さない言葉」(p8)を探してみたい。

    (斎藤真理子『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』創元社、2024年)

  • 「おくのほそ道」を旅する/芭蕉、ユルスナール、森崎和江(2024/9/27)

     東北への旅は半年ほどまえから決めていたことではあるが、具体的な計画もないまま、出発の日が近づいていた。出発まえのタイミングで、ちょうど「おくのほそ道」の新訳が文庫として刊行されることを知ったので、その本をカバンに入れて持っていくことにした。こうして私の旅は芭蕉とともにはじまった。

     旅をするときにはいつもいくつかのキーワードがあって、自分のあたまの中でそれらのことばを見失わないように、でもそれに縛られすぎないように、ことばとことばを繋ぐ道を探すようにして歩く。今回、出発のまえに私の中にあったのは、松尾芭蕉、芭蕉の足跡をたずねたマルグリット・ユルスナール、そして『北上幻想』を書いた森崎和江であり、私はこれらの一見して何の関連性もないキーワードを同時に心にとどめて歩くことで、そこに何かしらの道を見出そうとしていた。

     滞在時間は限られていたので、仙台空港に着いてすぐにレンタカーを借りて、そのまま平泉に向かった。古い杉の木立にかこまれた中尊寺の境内にはいくつかのお堂が点在していて、金色堂はその最奥部にある。金色堂は奥州藤原氏の初代清衡によって創建され、須弥壇には清衡、二代基衡、三代清衡の棺がいまもねむっている。

    五月雨の降残してや光堂

     金色堂を訪れた芭蕉はこんな句を残した。この句は、新訳「おくのほそ道」では以下のような訳になっている。

    毎年降り注いで地にあるすべてを腐らせてゆく五月雨だが、あたかも燦然と輝く金色の光に弾かれるように、光堂にだけは影響を及ぼせないままだ(p51)

     金色堂は何か異様ともいえる輝きを放っていて、私は思わずそこに立ちつくしてしまった。分厚い屋根とガラスに覆われてはいるものの、芭蕉がそこを訪れてから三百年以上が経ったいまも、光堂は五月雨にも朽ち果てることなく燦然と輝いている。その輝きは、死者たちによって保たれているように私には思えた。そして、その死者たちとは、奥州藤原氏の三代にとどまるものではなく、光堂のように褪せることのない何かを探して彷徨うすべての人々だという気がした。芭蕉の句が時代を越えて、そんな感覚を私に伝えたのかもしれない。

     その藤原清衡の先代にあたる安倍宗任の墓が、福岡県宗像市大島にある。私は大島の近く(近くといっても、車で三十分、その後フェリーで三十分かかる)で育ったが、そのこと自体は森崎和江の『北上幻想』を読むまで知らなかった。宗像に住んでいた森崎は、宗任の墓を手がかりに、「いのちの母国」を探して北上へと旅をした。

    権力を欲して争い合ってきた歴史や、弱者を商品化しながら築いてきた近現代の国家ではなく、そのひびわれの谷間や沼地やそして海で、呼びかわしつつ生き継いでいる魂の、その原郷があるはずなのだ。いのちの母国が。(『北上幻想』p76-77)

     森崎が探していたのは、「権力を欲して争い合ってきた歴史や、弱者を商品化しながら築いてきた近現代の国家」にも影響を及ぼすことができなかった何かであり、それは、たとえ近現代の歴史に表面的には覆い隠されたとしても、常にそこに存在する何かである。そんな「何か」を探していた森崎の後ろ姿を追いかける私の旅はこれからも続くだろう。

     ユルスナールもまた、もちろん森崎とはさまざまな面で異なっているが、近現代の流れに逆らって独自の旅を続けた人物という点ではどこか共通するところがあるように思う。ユルスナールはヨーロッパで貴族階級の末裔として生まれながら、世界中を転々とし、歴史と不可分の物語を紡ぎつづけた。自分の足で前人未到の旅をしながら言葉を紡いだ芭蕉が、芭蕉の足跡をたどるようにして松島や中尊寺を訪れたユルスナールが、北上で鬼剣舞を見ていた森崎和江が、いまも目のまえにいるような気が、平泉や北上を歩きながら、ずっとしていた。それは私にとって褪せることのない、光堂のようにいまこの瞬間も輝いている感覚である。

    参照文献

    『松尾芭蕉/おくのほそ道』松浦寿輝訳、河出書房新社、2024年

    森崎和江『北上幻想ーいのちの母国をさがす旅』岩波書店、2001年

    マルグリット・ユルスナール『東方奇譚』多田智満子訳、白水社、1984年

    マルグリット・ユルスナール『新装版 ハドリアヌス帝の回想』多田智満子訳、白水社、2008年

  • エスターのように自由に、エスターのように美しく/『ベル・ジャー』書評(2024/9/13)

     主人公であるエスター・グリーンウッドとおなじくらいの年齢のときに、はじめてこの小説を読んだ。2004年に刊行された青柳祐美子訳の『ベル・ジャー』はすでに品切になっていて、図書館の書庫から出してもらって夢中で読んだのを覚えている。エスターは、自分がどこにいてもガラスの覆い、つまりベル・ジャーに閉じ込められていると言った。私自身もそのような感覚を知っていた。ベル・ジャーは透明なガラスでできていて、そこにベル・ジャーがあること自体、外から見ただけではわからないかもしれない。でも、ベル・ジャーの中にいる息苦しさは確かにそこにある。私はエスターではないが、自分がエスターとかけ離れた場所にいるとは思えなかった。

     エスターは優秀な大学生で、有名出版社のインターンに選ばれてニューヨークに行くが、輝かしいものであるはずの将来を上手く思い描くことができない。

    どの枝の先からも、丸々とした紫色のイチジクみたいに素晴らしい未来が、手招きしたりウインクしたりしている。[……]どのイチジクを選んだらいいか決められないのだ。あれもこれも欲しくて、ひとつを選んでしまったら、残りすべてを失うと思っている。そうして決められずにいたら、イチジクにしわが寄って黒くなり、ひとつ、またひとつと、足元の地面に落ちていった。(p118)

     他にも、ベル・ジャーの破片となるものはたくさんある。たとえば医学生のバディ・ウィラードに対して抱かされる劣等感のようなもの、ミソジニストのマルコからの暴力、母親からの圧力、ローゼンバーグ事件に対する同僚の「あの人たちが死ぬことになって、ほんとうによかった」という言葉。エスターは、既存の社会を構成するどのような価値観にも馴染むことができない。だから、実際には言い返すことができなかった言葉を想像の中でバディに言ったり、同僚の言葉を聞いて衝撃を受けたときの状況を、後になって冷静に見つめようとしたりする。小説の中の言葉は、そのときそこにはなかったけれど確かにそこにある、エスターのもう一つの言葉であり、物語なのだ。

    そして彼が微笑みながら、誇らしげな表情を見せると、わたしはこう言うのだ。「あなたが切り刻んでいる死体もそうだよね。あなたが治療してあげていると思い込んでいる人たちも同じ。あの人たちはみーんな塵、塵なんだよ。でも良い詩っていうのは、その人たちを百人集めたよりも息が長いと思う」(p89)

     ベル・ジャーの中で息ができなくなったエスターは、やがて精神病院に入れられる。でも、精神病院に入ったからといって何かが変わるわけではない。最初にエスターの主治医になった精神科医のゴードン先生は、エスターにこう言う。

    「なにが問題だと思うか、話してみてくれるかな?」

     それに対して、エスターはこう思う。

    「ほんとうはなにも問題なんてないのに、わたしだけが問題だと思い込んでいるかのような言い方だった」(本文では一部に傍点あり) (p197-198)

     精神病院で、エスターは「電気ショック療法」を用いた治療を受ける。電気ショック療法とは、電気で頭部を刺激し、脳にけいれんを起こすことで、脳の機能を回復させようとする治療法である。エスターのこの体験は、1950年代のアメリカ社会と呼応している。というのも、アイゼンハワー時代、つまり冷戦下のアメリカでは、反体制の人々は電気ショックによって罰せられたからだ(「訳者あとがき」参照)。そのような時代状況の中で、社会に順応できず、精神を病むエスターは異常であるとみなされるのだ。でも、本当にそうだろうか?本当にエスターは異常なのだろうか?

     そのような判断を下す暇があるのなら、エスターの言葉に耳を傾けたい。

     「わたしはぜんぶ覚えている」とエスターは言う。

     解剖用の死体のことも、ドリーンのことも、イチジクの木の話も、マルコのダイヤのことも、コモン広場の水兵のことも、ゴードン先生のところの外斜視の看護婦のことも、割れた体温計のことも、二種類の豆を運んできた黒人のことも、インスリン療法で九キロ太ったことも、空と海のあいだに灰色の頭蓋骨みたいに突き出した岩のことも。

     もしかすると忘れてしまえば、雪のように、なにも感じなくなって覆い隠されてしまうのかもしれない。

     でも、あれはぜんぶわたしの一部だった。わたしの風景だった。(p361-362)

     私はエスターではないが、エスターのように自由に、エスターのように美しくあることができるなら、自分自身を、誰かを覆うベル・ジャーに目をこらし、ベル・ジャーの中から見える世界を、同時にベル・ジャーの外側に広がる世界を見つめようとするだろう。

    (シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』小澤身和子訳、晶文社、2024年)

  • 「外部から自分たちをもう一度見る想像力」/徐京植、そして石牟礼道子の地図(2024/8/31)

     大学の研究室の本棚にあった徐京植の『プリーモ・レーヴィへの旅 アウシュヴィッツは終わるのか?』を手に取ったのは、水俣関連の本が並ぶ棚の中に、この本が一冊まぎれているように見えたからだった。そうやって私は大学の研究室でこの本を読み、徐京植、そしてプリーモ・レーヴィに出会った。それから約1年後に徐京植の訃報が届いた。訃報のすぐ後、2024年1月にNHKで放送された「こころの時代選 徐京植追悼アーカイブ 離散者として生きる」を私は録画していたが、実際にその映像を見たのは今年も半ばを過ぎた頃だった。

     その映像の中で、2008年の徐はプリーモ・レーヴィの足跡をたどってイタリアのトリノを訪れていた。かつてレーヴィが暮らし、その生が絶たれた場所に立つ徐の姿を見て、私は以前読んだ『プリーモ・レーヴィへの旅』を想起し、それを読みはじめたときに、なぜ徐はそれほどまでに、つまり雪に覆われたトリノを訪れ、その墓を探さなければならないほどにレーヴィの足跡をたどろうとするのだろうかと考えたことを思い出した。その考えは、アウシュヴィッツと朝鮮半島、そして私自身が生きている日本をすぐに結びつけることができないほど乏しい私の想像力に起因していた。

     『プリーモ・レーヴィへの旅』の冒頭、徐は、レーヴィの墓へ向かっている自らと向き合いながら、10代の頃に訪れた韓国で父の故郷を訪れ、そこで祖父の墓に赴いた日を連想する。その記憶はまた、朝鮮解放の半年前に日本で獄死した詩人・尹東柱の墓を間島に訪れた際の記憶へと繋がっている。徐は「私がいつも引き寄せられるのは、帝国主義、植民地支配、世界戦争……20世紀の無慈悲な歴史に追い立てられ、故郷や家族から引き剥がされ、根こぎにされた死者たちの墓である」と書いた(『プリーモ・レーヴィへの旅』p12)。私は、敗戦から半世紀以上が経った日本に生まれながら、それまで自分がいかに歴史的な視点を欠いていたか、つまりアジアを蹂躙し、その責任を果たすことなく自ら意味するところの近代(※1)を突っ走ってきた日本をその外側から見ることなしに生きてきたかを知った。

     徐は先述した「こころの時代」の映像の中で、「外部から自分たちをもう一度見る想像力」について語っている。徐によると、そのような想像力を私たちが養うための手がかりとなる破片はすでにレーヴィ、あるいは無数の無名の人々によって残されている。さらに、「外部から自分たちをもう一度見る想像力」とは、言い換えると「他者への想像力」であるという。徐は「もし私たちに自分たちがいま生きている空間しか存在しないとすると、例えばアウシュヴィッツのその外側が存在しないとすると、そこから生き延びるという発想が出てこないわけですね。「外」があると考える、「外」にいる誰かが存在すると考えること」と語り、私たちの外側に常にそのような場所が存在することを示し、また、沖縄、フクシマ、パレスチナへ視線を向け、離散者(ディアスポラ)として生きること、今ある世界の外側を想像することを問い続けた。

     この「こころの時代」を見て、あるいは『フクシマを歩いて』を読んで、私はなぜか石牟礼道子のことを想起した。石牟礼は水俣病について書いたが、徐の言葉を借りるならば、そこには水俣病を引き起こした近代そのものをその外部から見つめる想像力が存在していたといえるかもしれない。石牟礼が書いたのは、たんに水俣病の悲惨さやその教訓ではなく、だからといって純粋に近代に対する批判でもなく、水俣病以前から続く世界を表現する、しかし確かに水俣病をめぐる経験の中で生まれた言葉であった。つまり、石牟礼は近代という時代の中で避け難く水俣病に直面しながらも、何か水俣病の悲劇のみに回収できないような世界を描き、その、いわば近代の外側にある世界から、近代を生きる私たちを見ていたのではないだろうか。そこには常に「他者への想像力」があった。ここまで考えてようやく私は、あの本棚の中に『プリーモ・レーヴィへの旅』があった理由に、断片的であれ触れられたような気がする。

     アウシュヴィッツ、朝鮮、沖縄、フクシマ、パレスチナ、水俣。それぞれに歴史的文脈は異なっていて、それらを安易に結びつけたり、同一視することなどできない。しかし、それぞれを結びつける、あるいは絡まった状況を解きなおすための繋がりの地図が徐京植によって、石牟礼道子によって、また「無数の無名の人々」によって示されたならば、これまで私たちが歩いて来た近代とは別の道ーー徐や石牟礼が描いた地図を読み、さらに私たち自身が新たな地図を描くことで見えてくる道ーーが必ずどこかにあるはずだ。その道を今、私は切実に必要としている。

    ※1 徐は「実態は侵略する側とされる側に引き裂かれており、日本とその他の民族では近代の意味が異なるのである。「アジア・リアリズム」と一括して呼んでいるが、日本とその他の諸民族では当然、「アジア」の意味も「リアリズム」の意味も異なってくるはずだ」と述べている(『フクシマを歩いて』p189)。

    参考文献

    徐京植『新版 プリーモ・レーヴィへの旅ーアウシュヴィッツは終わるのか?ー』晃洋書房、2014年

    徐京植『フクシマを歩いてーディアスポラの眼から』毎日新聞出版、2012年

  • 視線を遠くに投げる/チョン・セラン『シソンから』書評(2024/8/15)

     『シソンから、』という物語の中心にいるシム・シソンは、朝鮮戦争によって家族全員を失い、ハワイへの移住を経てヨーロッパに渡り、芸術家としての人生をはじめた人物である。シソンはヨーロッパで画家としての仕事をしたあと韓国に戻って、さまざまなインタビューやテレビ出演に応じながら、美術評論やその他の文章を書いた。訳者あとがきにあるように、タイトルの「シソンから、」は、「「シム・シソンから広がってきた人々の物語」ということだ」(p351「訳者あとがき」)。また、「シソン」は「視線」と同音であり、著者のチョン・セランはインタビューで「視線を遠くに置くことが大事。問題を近くで考えすぎず、長く、広く見ていくことが、絶望を避ける方法、よい市民、よい大人になる方法だと思う」と話していたという(p352「訳者あとがき」)。

     シソンが亡くなってから10年が経ち、彼女の子孫たち、つまりシソンの「かけら」をそれぞれに秘めた人々は、ハワイでシソンの祭祀(※1)を行うことになる。物語は、ハワイでの祭祀の記録と、シソンの祭祀に参加した人々の記憶やハワイに来るに至るまでの過程、さらにシソンが書いた文章やインタビューなどが交差しながら進行する。各章の冒頭には、シソンの文章などが引用されていて(その引用は登場人物の中の誰かによるものかもしれないが)、それらのことばはフィクションという深淵を越えて私たちにまで直接届く。

     シソンの祭祀のためにハワイに集まった登場人物たちは、21世紀の現在を生きながら、さまざまな問題に直面している。たとえば、ファスは会社で起きたある事件のPTSDに苦しんでおり、キュリムは学校内でのヘイト発言問題の渦中にいる。それらの問題の解決が見えない行き詰まりの中でも、シソンへの道だけは、過去との対話の道だけは常に開かれている。なぜならそれは記憶の中だけにある、目には見えない道だからだ。それぞれの登場人物は、過去のシソンとの対話の中に、シソンのことばやふるまいの中に、自分たちがこれから生きていく道につながる何かを見出していく。そして、そんなふうに過去と向き合い、死者を思うための時間がハワイにはある。

     物語の中で、20世紀にシソンが女性芸術家としてどのように生きてきたのか、さらに朝鮮戦争の記憶にシソンがどう向き合ったかということは、そのまま21世紀を生きる登場人物たちー私たちを含めた21世紀を生きる人々ーがどのように生きていくのかということにつながっている。シソンは、朝鮮戦争のさなかに虐殺された家族の遺骨がある故郷の「T」に先端産業団地が建設されるという話を聞いて、「何十人もの人が埋まったままでそこを整地してしまったら、この国に未来があるだろうか?」と書いている(p311)。そして、家族を虐殺された後に一人で移住したハワイで食べた韓国料理を作ってくれたおばさんたちのことを思い出した後、自分にはそんなふうに料理をつくることはできないけれど、「それでも私が私なりに若い人たちに対してなんらかの役割を果たせたのであれば嬉しい」と語った(p311-312)。

    「落ちた果実のような私の失敗や彷徨を養分として次の世代がさまよわずにすむのなら、それは意味のあることだろう」(p312)。

     シソンの視線は遠くまでのびていた。その視線の先にいる私たちは、その視線を受けとめ、引き継ぎ、さらに遠くまで視線をとばすことができるだろうか。

    (『シソンから、』、チョン・セラン著、斎藤真理子訳)

    ※1 韓国の祭祀については「訳者あとがき」(p353-354)に詳しい説明がある。

  • 茅辺かのうという生き方(2024/8/8)

     茅辺かのう『アイヌの世界に生きる』を2021年の刊行後すぐに手にとってから、3年が経った。『アイヌの世界に生きる』から強烈な印象を受けたものの、著者である茅辺かのうについては、一人で北海道に渡り、十勝のアイヌ農家の家に泊まり込んでアイヌ語の口述筆記を行った人物であるという認識にとどまっていた。茅辺について知りたかったが、本文中には著者自身に関する個人的な経歴などへの言及はなく、表紙カバーの見開き部分に略歴らしきものが記載されているだけで、インターネット上にもほとんど手がかりはなかった。私はこの『アイヌの世界に生きる』をお店の棚に並べ、その本が売れたのをきっかけに、再び『アイヌの世界に生きる』、そして茅辺かのうに意識を向けるようになった。

     『アイヌの世界に生きる』にも茅辺の経歴は書き込まれていたはずだが、私が茅辺かのうとは筆名であること、茅辺がアイヌの人々とかかわりながら生きる以前に、網走での水産加工場勤務、帯広での住み込みの農業労務を行いながら暮らしていたことを知ったのは、2023年に月曜社から刊行された『階級を選びなおす 茅辺かのう集成』を読んだ後だった。茅辺(※1)は京都に生まれ、京都大学を中退後、東京で編集者として働き、編集者の仕事の傍ら、1960年頃には安保闘争や三池闘争の支援活動にかかわっていた。茅辺自身は炭鉱労働者の支援活動について「気持の上では勤めより大切にしていた」と述べている(p8『アイヌの世界に生きる』)。そして、茅辺よるとこの頃、「生活と意識のズレ」が大きくなり、「どちらにも徹底しない曖昧な状態」が続いていた(p8『アイヌの世界に生きる』)。

     『アイヌの世界に生きる』は、本州からの開拓移民の子として生まれながら、アイヌ女性の養子としてアイヌ文化を受け継いで生きてきた「トキさん」からの依頼に応じて行ったアイヌ語の筆録と、筆録のためにトキさんの家に泊まり込んだ20日間ほどの記録から構成されている。トキさんは茅辺に、「生い立ちの話をぜひ聞いてもらいたい、そうすればアイヌ語の記録を思い立った自分の気持がわかると思うし、わかった上でアイヌ語の説明も聞いてほしい」と語った(p33『アイヌの世界に生きる』)。茅辺はトキさんの呼びかけに誠実に応える一方で、実母を「自分を捨てた」人物として責めるトキさんについて「養母の乾いた気性に対して、実母の哀願するような態度は、それが社会的につくられた日本人の女性の一面であるとは思いおよばず、自分自身の感性にそぐわないものとして見棄てることができた」(p89『アイヌの世界に生きる』)と書くような批判的な視点も持ち合わせている。なお、ここで茅辺が批判しているのはトキさんではなく、トキさんをそのような状況にまで追い詰めた、アイヌを自らの一部として取り込んだ挙句、その末端に位置づけてしまうような日本社会のあり方である。

     アイヌ語を筆録することは、語り手であるトキさんにとっても、聞き手である茅辺にとっても容易なことではなかった。二人はいくつかの項目に分けて筆録をすすめていくが、アイヌの生活世界と密接に結びついたアイヌ語を日本語に置き換えることは本来不可能である。トキさん自身が「アイヌ語を残すためにその「文字」を使い、しかも人に頼まねばならないという矛盾に気づいている」こと、茅辺がアイヌ語を「ひとつの日本語に置き換えるだけでは意味の通じない単語が多い」、「いくつかの項目を立てて分類すること自体に無理があった」と述べていることからもわかるように(p112-113『アイヌの世界に生きる』)、アイヌ語を話すこと、そしてそれを聞くことは、日本語に置き換えることができない世界を生きることでもあった。茅辺は、トキさんが「語ることによって鮮やかに浮かび上がる養母との日々に浸り、その世界の住人になりきっていた」ことに気づき、自らもトキさんの話を聞くことで「語ることによって生きていた文字のない言葉と人間との関わりが、どれほど緊密なものだったかを、おぼろげに感じることができた」と書いている(p204『アイヌの世界に生きる』)。

     このような筆録が行われるに至った背景には、1962年に茅辺が単身北海道へ渡ったことが関係しているが、そもそもなぜ茅辺は北海道へ向かうことになったのだろうか。

     そこには、敗戦後も変わることのなかった天皇を頂点とする統治体制への批判があったように思う。茅辺は「戦争終結を知った時、「戦争」に対して自分たちは全て等距離にあったと思いこみ、実は置かれていた立場によって違うのだということを、認識しなかったのではなかったろうか」と問い、「だから、目にみえる即物的な「物のない」ひどいくらし、という実感の段階で、みんな戦争の(等質の)被害者であるという共感をまず抱いた、といえる」と書いている(p451『茅辺かのう集成』)。

     先述したように、アイヌを植民地化した日本は、自らが抱え込む体制の末端にアイヌを位置付けた。「狩猟採集民・漁民でありほとんど農業を行わなかったアイヌは、日本人によって強制的に貧しい土地に移住させられた上で、日本人が日本人のために導入した農業に従事させられた」(p9『アイヌがまなざす』)。茅辺は、そのような社会構造の中で、さらにそのような社会に生きることの行き詰まりの中で、自分が「生きる上での前提、当然だと思っている一定の線から先のところでばかり生きて来たのではないか」(p37『茅辺かのう集成』)と考え、日常生活を一から組み立て直そうとしていた。そして、そのためには、北海道に渡ること、さらに「茅辺かのう」というもう一つの名前が必要だったのではないだろうか。

    意識の変革ということがあるとすれば、意識的無意識的に身につけてしまったものを、そこに上載せするのではなく取り去ろうとする意志の中にしかないのではなかろうか。無意識部分はほとんど、偶然に生まれおちた時間と空間によって占められているといえる。取り去ることができないときまっているものを取り去ろうとする意志である。そのためには、居心地の良さ、安定性を少し我慢して、ほんのわずかでも具体的に体を動かし、疑おうともしなかったことや見慣れたものに、わずかながらも動いただけの視点を当て直す、そういうところにしか、意識の変革ということは認められないだろう。

    (p445『茅辺かのう集成』)

     茅辺は、「度しがたく変わらない部分とその現象との距離を測りながら、人間の拠るべきところ、あるべき世界への想像力をかきたて、わたしの占める場所をたしかめ続けたいという思いは強い」(444-445)と書いた。茅辺が言うように、私たちはもう一度、いや、何度でも、常に、「意識的無意識的に身につけてしまった」価値観や制度を取り去ろうとしなければならないのではないだろうか。知らず知らず内面化してきたそれらを取り去ることなしに、「あるべき世界への想像力」はあり得ないのだから。

    ※1 本名は井上美奈子。ここでは筆名である茅辺かのう表記を用いる。

    参照文献

    茅辺かのう『アイヌの世界に生きる』筑摩書房、2021年

    茅辺かのう『階級を選びなおす 茅辺かのう集成』月曜社、2023年

    石原真衣・村上靖彦『アイヌがまなざすーー痛みの声を聴くとき』岩波書店、2024年

  • 小説の中の他者/ウィラ・キャザー『マイ・アントニーア』を読む(2024/8/1)

     ウィラ・キャザーは1873年、アメリカのヴァージニア州に生まれ、F・S・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・フォークナーらとほとんど同時代に活躍した。『グレート・ギャツビー』がキャザーの物語構造を参照していることは知られているが、作家たちはさまざまな面で互いに影響を与え合っていた(にもかかわらず、フィッツジェラルドやヘミングウェイなどに比べると、日本においてキャザーの名前が広く知られているとは言えないだろう)。キャザー自身は、1883年、10歳のときにネブラスカ州に移住している。キャザーが生きた19世紀後半から20世紀初頭にかけて、つまり南北戦争と第一次世界大戦の間の時期、アメリカは近代資本主義国家に向かって急速に変化していた。

     キャザーの小説『マイ・アントニーア』は、キャザー自身も認めているとおり、キャザーを代表する小説である。ネブラスカ州の田舎町で子ども時代をともに過ごした「わたし」とジム・バーデンは、「アイオワ州を横断する列車に偶然乗り合わせ」る(p1)。二人の話題は巡り、おなじくネブラスカ州でともに子ども時代を過ごしたアントニーアという「一人の中心人物」に戻ってくる。ジムは「わたし」に「アントニーアについて覚えていることを、ときどき書き留めている」と語り(p3)、この後に続く小説の本編がジムによって書かれたその原稿であることが示される。

     この小説の一つの特徴は、登場人物がさまざまなルーツを持っていることである。幼い頃に両親を亡くし、ネブラスカ州にある祖父の農場にやって来たジムは、そこでボヘミアからの移民であるシメルダ一家とその娘であるアントニーアに出会う。ネブラスカのその町にはさまざまな場所から移住してきた人々が暮らしている。たとえば、祖父の家で働くオットーとジェイクが移民であることについては何度か言及されているし、他にも、「ノルウェー人の居住地」に住む人々の話が出てきたり、ロシアからやって来たパヴェルとピーターとの交流が描かれていたりする。幼いジムにとって「ロシアはどの国よりも遠い国」のように思われたという(p27)。また、アントニーアはジムに、自分の父親が「故郷のことを思って悲しがっている」こと、「お父ちゃんはこの国が嫌い」であることを打ち明ける(p72)。

     ジムにとってシメルダ一家は見知らぬ土地からやって来た他者である。ジムは、祖母に向かってものをねだる「シメルダ夫人」を疎ましく思ったり、シメルダ家の長男であるアンブローシュをひいきする女性たちを批判したりする一方、アントニーアの父親であるシメルダ氏を尊敬し、アントニーアと交流を深めていく。シメルダ氏はいつも体調が悪く、元気がなかったが、アントニーアやジムにとってのシメルダ氏は、ボヘミアでホルンやヴァイオリンを弾き、たくさんの本を読んでいた人物であり、アメリカに移住してかつての生気を失ってなお尊厳を失わない人物である。やがてジムはネブラスカを出て大学に進学し、アントニーアとは別々の道を行くことになる。

     さらに、この小説のもう一つの大きな特徴は、ジムの他にもう一人の語り手である「わたし」が存在することである。「序」における語り手は「わたし」であり、「わたし」にとってはジムも他者である。この物語の構造は、ジムが絶対的な語り手、唯一の総合的な視点ではないことを示している。それは、この小説が書かれた19世紀後半から20世紀前半にかけて急速にかけて「大国」への道を突き進むアメリカを導いてきた「白人」が歴史における絶対的な語り手ではあり得ないことを示してもいるだろう。

     大学を出て、弁護士として社会的成功をおさめたジムは、20年の月日を経て再びアントニーアに会いにネブラスカに行き、その帰りに、子どもの頃に通った道の一部に出会う。

    ぼくが、この荒れた牧草地をさまよっていると、ブラック・ホークから北の地域に向かう最初の道の一部分に出会った。それは、祖父の農場に向かう道であり、それから、シメルダ家の農場に、そして、ノルウェー人の居住地へ続くものだった。街道の測量が行われると、殆どの土地は開墾されてしまった。牧草地の垣根の内側にある半マイルかそこらの道は、かつて、誰の所有でもない大草原を、高いところでは大地にしがみつき、猟犬に追われた兎のように円を描いたり折り返したりして、野生の生き物のように走り回っていた古い道の生き残りだった。

    ウィラ・キャザー『マイ・アントニーア』佐藤宏子訳、みすず書房、2011年、p298

     道はほとんど消えてしまっていたが、その生き残りは、ジムの中にかつてそこにあった道を再び呼び起こす。

    この同じ道が再びぼくたちを結びつけるのだということが分かった。ぼくたちが失ったものがなんであれ、ぼくたちは、伝えることが不可能な貴重な過去を共有しているのだ。

    ウィラ・キャザー『マイ・アントニーア』佐藤宏子訳、みすず書房、2011年、p299

     ジムはネブラスカで過ごした子ども時代に後戻りすることはできないが、20年後にジムが見つけた道は、円環のように過去につながっている。その道をたどっていくと、そこにはさまざまな人々が行き交い、かならずしも快適に過ごすのに向いているとはいえない厳しい土地ーーそれぞれが偶然たどり着いた、夏は酷暑、冬には厳しい寒さがやって来るその場所ーーで、互いに排除し合うことなく暮らしている。

     アントニーアやジムが生きた時代を遠く離れて、私たちは近代という道を突き進んできた。その代償はもはや数え切れない。ジムとアントニーアが共有したような過去の記憶を、故郷喪失者である私たちは持っていない。それでももし、その古い道、つまり資本主義的近代とは別の、かつてそこにあったはずの道の「生き残り」がどこかにまだあるとするならば、私はその道を探すために時間を遡り、その道の上にもう一度立って、道がどこにつながっているのか、その先にどんな風景があるのかに目をこらしてみたい。

    (ウィラ・キャザー『マイ・アントニーア』佐藤宏子訳、みすず書房、2011年)

     

  • 王子さまのように/サン=テグジュペリと須賀敦子(2024/7/26)

     サン=テグジュペリの『星の王子さま』を実際に読む以前から、その中の台詞を時々耳にすることがあったからなのか、大学生になるまでまともに『星の王子さま』を読んだことがなかった。当然、サン=テグジュペリの他の作品も知らないまま過ごした。

     大学を卒業して、自分の進路をなかなか決められずに本ばかり読んでいた私は、半世紀以上まえ、おなじように「自分の行くべき方向を決めかねてそのために体調をくずしていた」という須賀敦子の文章に出会った。須賀が大学を出た年の夏、友人たちに誘われて出かけた旅行の荷物の中には、サン=テグジュペリの『夜間飛行』と『戦う操縦士』が入っていた。それからながい時間が経ったあと、須賀の手元には「傍線・付箋だらけ」の『戦う操縦士』が残された。その中から須賀は、次の文章を抜き出している。

    「建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである」(※1)

     このことばは、「人生のいくつかの場面で、途方に暮れて立ちつくしたとき」、あるいは「自分がこうと思って歩きはじめた道が、ふいに壁につきあたって先が見えなくなるたびに」、須賀を支え、その羅針盤であり続けた。私は、須賀のことばを私自身の「羅針盤」のように思うと同時に、須賀を導いたサン=テグジュペリのことばと思想に再び出会い直したかった。

     サン=テグジュペリは作家であると同時に飛行士でもあった。『星の王子さま』、『戦う操縦士』、『夜間飛行』、『人間の土地』と、サン=テグジュペリの物語には飛行士が登場する。サン=テグジュペリ自身の飛行士としての経験と、これらの物語を切り離して考えることはできない。実際に、サン=テグジュペリ自身もインタビューで「私にとって、空を飛ぶことと書くことは、まったくひとつなのです。重要なのは行動すること、そして自分自身の位置を自らのうちで明らかにすることです。飛行士と作家は、私の意識のなかで同じ比重をもって渾然一体となっています」(「解説」『戦う操縦士』p303より)と語っている。

     『戦う操縦士』は、第二次世界大戦中、偵察のために軍用機を操縦していたサン=テグジュペリの経験に基づいて書かれた物語である。実際に、この作品はアメリカが連合国側に立って参戦することを促す出版社側の意図と切り離せないものであったし、参戦直後のアメリカでも大きな成功を収めた。にもかかわらず、「解説」にあるように、「そもそもこの作品の骨子となる偵察飛行は、物語のはじめからすでにその無意味さが繰り返し強調されている」(「解説」p315)。たとえば、語り手である「私」は、「なぜ死ななければならないのか」(p29)問う冷静さを持ち合わせている。また、「私」は、任務中にもかかわらず、さまざまな記憶と思索にとりつかれていて、「死が待ち構える場所に近づくにつれて、自分自身の起源の場である幼年時代という「広大な領土」がいっそう強く立ちあらわれてくる」(「解説」p317)。

    「攻撃はさらに激しくなっているかもしれないが、私は相変わらず内側にとどまっている」

    サン=テグジュペリ『戦う操縦士』鈴木雅生訳、光文社、2018年、p189

     サン=テグジュペリは、戦争によって崩壊した世界を空から眺めながら、崩壊以前にそれらを互いに結びつけていたものに思いをめぐらせる。死の危険が待つ領土に近づくにつれて、内面では記憶の中の「広大な領土」に近づいてゆく。あるいは、不時着した砂漠で小さな王子さまに出会う。そのどちらかが現実というわけではなく、切り離すことのできないこれらすべてが、サン=テグジュペリにとって「自分自身の位置を自らのうちで明らかにする」試みだったのかもしれない。

     サン=テグジュペリの作品について書かれた須賀のエッセイには「星と地球のあいだで」というタイトルがつけられている。「星と地球のあいだ」にいたサン=テグジュペリは、一方の側からだけでは見えない物事の結びつきや、移り変わってゆくさまざまな光景を見ていたのではないだろうか。その視点は絶えず変化する。砂漠に不時着したサン=テグジュペリは、最初、砂漠の真ん中で火を焚きながら誰かに見つけてもらうことを望むが、やがて「役割の転倒」(『人間の土地』p183)が起こる。砂漠で救援を待っていたはずのサン=テグジュペリは、「彼方で人々が助けてくれと叫んでいる」こと、「人々が難破しかけている」ことに気づき、「ぼくらが駆けつけてやる!……ぼくらのほうから駆けつけてやる!ぼくらこそは救援隊だ!」と語りはじめる。

     去年の末になんとなく選んだ『星の王子さま』のカレンダーを、毎月めくるたびについながい間眺めてしまう。小さな星に膝をかかえて座っている王子さま、尖った崖の上にスカーフをたなびかせながら立っている王子さま、砂漠で井戸をのぞきこんでいる王子さま。王子さまは、たしかに「王子」にはちがいないのだが、それは、どの国の王子でもなく、ただ一人、自分だけの星の王子なのだ。さらに、王子さまはその星すらも飛び出して別の星々を旅する。そこには未知のもの、かけがえのないいくつもの出会いが待っている。カレンダーを眺めながら、私も小さな王子さまのようにありたいと強く願う。

    ※1  須賀敦子「星と地球のあいだで」『遠い朝の本たち』筑摩書房、2001年、p125

    参照文献

    サン=テグジュペリ『戦う操縦士』鈴木雅生訳、光文社、2018年

    サン=テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮社、1955年

    須賀敦子「星と地球のあいだで」『遠い朝の本たち』筑摩書房、2001年、p115-130

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