「アウトサイダー」であること/『三ギニー』書評(2024/7/5)
ウルフがこの本を書いたのは約90年前である。90年前と現在との間には、時間的にも空間的にも大きな隔たりがあるにもかかわらず、この本の中で指摘されているさまざまな問題はけっして過去のものとはいえない。というのも、ウルフが生きた90年前も今も、「戦争を阻止するために」何ができるのかを具体的かつ性急に考えなければならないという切迫した状況に置かれているという点では同じであり、また、私たちが自由に使えるお金は相変わらず「三ギニー」ほどであるからだ(※1)。
この本の中で、ウルフは女性、あるいは社会的に抑圧された立場にある人々が自由に使えるお金を「三ギニー」と仮定して、その大切な「三ギニー」の使い道になぞらえながら、「戦争を阻止するために」私たちができることは何か問いかけている。「戦争を阻止するために」ということばは、教育も地位もお金も持っているはずの、「文化と知的自由を護る会」の男性からウルフが受け取った手紙の「どうすればわれわれは戦争を阻止できるとお考えですか?」という質問からとられている。
ウルフが考え出した使い道は、一ギニーを女子学寮建て替え基金に、一ギニーを女性の就職支援団体に、一ギニーを「文化と知的自由を護る」協会に寄付するというものだ。ウルフは、自らの能力を誇示したり、軍務に従事することによって虚栄心を満たすような既存のーー戦争に向かう社会を根底から支えてもいるーー価値観とは別の価値観を持つ自らを「アウトサイダー」として、「新しい言葉を見つけ、新しい方法を創造すること」(p262)によって、「戦争を阻止する」という共通の目的を果たすために協力すると語る。
女子学寮建て替え基金に寄付された一ギニーは、教育それ自体が教育の目的、つまり教育によってどんな社会、どんな人間を育てるべきかを常に問い続けることを要求している。さらに、女性の就職支援団体に寄付された一ギニーは「職業を、自分一人の精神と自分一人の意志を持つのに使える」ようにすること(p154)、「文化と知的自由を護る」協会に寄付された一ギニーは、自らの手で価値あるものを作り出し、自らの目で価値を見出すことを要求している。そして、これら三ギニーはそれぞれ別の団体に寄付されているものの、「戦争を阻止する」という共通の目的を持っている。つまり、一見何の関係もないように見える教育や職業、文化と知的自由が、たしかに「戦争を阻止する」ことにつながっているのである。ウルフがこの本を書くことで証明しているように、文学もまた例外ではない。
ウルフがこの本を書き終えた翌年には第二次世界大戦が始まり、それから約2年後にウルフは入水自殺した。つまり、訳者も書いているように、この本は「第二次世界大戦も阻止できなければ、作者自身の自殺も阻止できなかったことになる」(p400)。実際に、出版当時は、この本をたんに理想論だとする意見も多かった。しかし、訳者はこうも書いている。「だが戦争を阻止するには文明全体を変えなくてはならないと訴える本書に即効力を期待しても、ないものねだりかもしれない」(p400)。にもかかわらず、この本が書かれてから1世紀が経とうとしている今、なぜ私たちはいまだに「どうやったら戦争を阻止できるのでしょうか?」と問い続けているのだろうか。
「アウトサイダー」であるウルフはこう語る。「実際、女性であるわたしに国はありません。女性であるわたしは国などほしくありません。女性であるわたしにとって、全世界がわたしの国なのです」(p199)。これは、「何体もの遺体と何棟もの倒壊家屋」から目をそらすことのなかったウルフの切実なことばだろう。
私たちは、自分が本当はどんな世界を望んでいるのかをもう一度考えてみる必要がある。そして、ウルフのことばを手がかりとして、私たちが持っている「三ギニー」の使い道を何度も検討しなければならない。私たちは一人一人が「アウトサイダー」であることができる存在、少なくとも、今ある世界の外側を想像することができる存在であるはずなのだから。
「あなたがたもわたしたちも、[……]抵抗できず、服従する他ない受け身の傍観者ではない、思考と行動によってその姿を変えられる」
ヴァージニア・ウルフ『三ギニー 戦争を阻止するために』片山亜紀訳、平凡社、2017年、p260
※1「訳者あとがき」には三ギニー=約3万円程度であると説明されているが、お金の価値そのものが変動的であることや、時代や状況によって「自由に行使できるお金」は異なることなどから、ここではどちらかというと概念的な用語として「三ギニー」を捉えている。
(ヴァージニア・ウルフ『三ギニー 戦争を阻止するために』片山亜紀訳、平凡社、2017年)