福岡アジア美術館と『世界の果て、彼女』(2024/5/17)

 福岡・中洲の博多リバレインビル7階に福岡アジア美術館はある。小さい頃、よく母に連れられてこの場所に来ていた。その頃の私は、ここがどんな場所なのかあまり理解していなかったように思うが、なんとなく、日常の中で凝り固まったものとは違う、はるか古代から絶えず行き交う何かがこの場所に息づいていることを知っていた。そこに来ると不思議と心が静まった。

 中学校に上がってから、母と出かけることも少なくなり、いつの間にかアジア美術館に行くこともなくなった。中学生だった私は、部活が休みの日には、家の近所ばかりうろうろしていたし、高校でも、勉強やさまざまな忙しさにかまけて、自分の外にある世界に目を向けようとしなかった。大学では、遠い未知の国に興味を持ったが、自分が生きるアジアのことは、わかったつもりになっていたのか、ことばすらまじめに学ぼうとしなかった。

 私が韓国のことばを日々の中で実際に読んだり聞いたりするようになったのは、大学の学部を卒業してからのことで、そのきっかけとなったのは音楽だったが、時間をかけながら、少しずつ文学にも触れる機会を得た。

 その過程で再びアジア美術館に足をはこぶようになった。コレクションや展示を見に行くことが目的の日もあったが、ふだんは、売店横からアートカフェスペースにまで広がる膨大な蔵書を手にとることが目的だった。そこには、これまで福岡アジア美術館で開催されてきた展示のカタログや、アジア各国の歴史、美術、食、言語などに関連する本、旅のガイドブックなどがびっしりと並んでいた。

 それらの書物は、豊かな文化の往来だけでなく、私たちの歴史的責任を提示してもいる。そして、それらの書物が語っていることと作用し合いながら展示を続け、さまざまな場所から訪れる人々を受けいれるアジア美術館という場所は、他者との困難な対話の中で、その困難をまえに何もできなくなるのではなく、困難さに足をとられながらももがき続けるという点において、無数の方法で、いくつもの通路を提示しているのではないかと考えるようになった。

 だから、キム・ヨンスの『世界の果て、彼女』(キム・ヨンス 2014『世界の果て、彼女』呉永雅訳、クオン)にアジア美術館が出てきたときも、単なる偶然には思えなかった。この短編集の中の「君が誰であろうと、どんなに孤独だろうと」という作品において、アジア美術館は、主人公の「私」と「私」が評伝を書くことになった「彼」、そして「彼」が生きているときにその隣にいた「キム・ギョンソクさん」を結びつける場所として描かれている。「私」の個人的な痛みは、すでにこの世にはいない「彼」が写真に撮ろうとしたものを見つめようとすること、自らのルーツを探す「キム・ギョンソクさん」と対話を続けることの中で、個人的な痛みを越えて、いつしか他者の痛みと幾重にも結びついた痛みへと変化していく。

 それだけではない。小説の中にアジア美術館という場所が書きこまれることによって、私自身の痛みも、「私」や「彼」、そして「キム・ギョンソクさん」と切り離せないものになった。小説と現実、韓国と日本、過去と現在、それらの間には越えることのできない深淵が存在するが、私が生きる現実が小説によって描かれた現実と接続したように、アジア美術館が無数の深淵を抱えたままそこにあり続けるように、複雑に絡み合う物語の中で、他者とともにある方法は私たちが想像するよりもずっと豊かなのではないだろうか。

「僕は、他者を理解することは可能だ、ということに懐疑的だ」

「著者の言葉」(キム・ヨンス『世界の果て、彼女』呉永雅訳、クオン、2014年)

(キム・ヨンス『世界の果て、彼女』呉永雅訳、クオン、2014年)