後ろを見ながら前にすすむ/西戸崎で本屋をすること(2024/5/23)

 先日、友人が福岡にあそびに来た。友人はお店に来て、長いあいだ棚を見てまわり、本を選んでくれた。それだけでも嬉しかったが、一緒に船に乗って博多港まで来てくれると言う。西戸崎の渡船場から船に乗って、二人で博多港に向かった。

 西戸崎から博多までは市営渡船で15分の距離である。海の上から見ると、ふだんから歩きまわっている街が、いつもとはちがって見える。小さい頃、朝起きるときや、夜眠るまえに、自分の住んでいる家がまったく未知の場所に思えたように。船が岸から離れていくにつれて、私は知らない国を旅している気になった。湾岸にそびえるマンションも、乗馬クラブも、水族館も、どんどん遠くなっていく。

 鈍色に輝く博多湾を渡る。私たちは船の2階に座った。ちょうど、船の進行方向とは真逆、つまり自分たちが後にしてきた方を向いて、船がはき出す白い泡を見ながら、博多港に向かっていた。私は、ベンヤミンの「歴史の天使」を思い出しながら、後ろを見ながら前にすすむとはこのようなことなのだろうかと思う。遠ざかっていくとはいえ、肉眼で見ることのできる距離にある西戸崎の街を眺める私を乗せて、船はやがて博多港に到着した。

 しかし、この場所も最終目的地ではない。博多港から自転車に乗って、天神の街を颯爽と横切る。5月の天神は、若葉をつけた木々の音と、行き交う人々のさざめきに満ちていた。木漏れ日が美しい。活気にあふれている。歩いているうちに、さまざまなイメージが浮かんでくる。たとえば、5月の街の緑色は、インドネシアのバリで見た木々の緑のイメージと重なる。いくつもの言語が混ざり合って聞こえてくる感じはソウル、あるいはニューヨーク。私がそうするよりずっと前に5月の街中を歩いた人々、そしてこれから歩く人々。

 私が今歩いている街が、ここではない場所や、異なる人々との接続点になる。その瞬間、次々に浮かんでくるイメージは現実そのものになる。私たちを生かすのは、このような現実ではないだろうか。つまり、私たちが生きる現実は、単層的、単線的なものではなく、積み重なったり、平行して存在したりするさまざまな現実とかかわり合いながら、常に変化しつづける現実であると言うことはできないだろうか。

 もちろん、現実全体を捉えることは不可能かもしれない。しかし、今ある現実の外側にも現実があるのだと認識することは可能だと思う。自分が暮らす街から船で遠ざかっていくときに私がそう感じたように。後ろを見ながら前へ、まったく未知の世界へすすんでいくように。私たちは、私たち自身が捉える現実を生きていかなければならないのだから。いや、生きていくことができるのだから。

 天神からさらに博多駅に向かって歩く。那珂川を越えて、キャナルシティを通過し、本などを見ながら駅の中を歩きまわった後、2泊3日にしては荷物の少ない友人と手を振って別れた。