屈折した、かすかな通路/『慶州は母の呼び声』書評(2024/7/12)

 2024年4月16日、私は博多港に来ていた。セウォル号事件から10年が経ったその日、何かを自分に問いかけるため、これから自分がどう生きていけばいいのか、その手がかりのようなものを探すため、海が見える港へやって来たのだ。

 10年の間に何かが変わったと信じたかったが、そんなふうに考えられるほどの確かな手ざわりは現実のどこにもなく、むしろ、私たちは取り返しのつかない方へ向かっているという感覚の方が確かですらあった。ただ時間が経ちさえすれば事態がよい方へ向かうということはないのだ。にもかかわらず、どんな形であれ前に進むためには、希望がなくてはならない。ではどうすればよいのか。

 そのようにして、私はよく生きていくための道を見失う。そんなときに、いつも話をする人々がいる。その人たちはすでにこの世を去っているが、私にとっては近しい存在だ。私は本棚に歩み寄ってその人たちに会い、時間も忘れて話をする。その人たちが問いかけること、願うことに耳をすまし、ときにその一部を自分自身のものとして受け止めながら、なかったはずの道が不意に目のまえに広がるのを待つ。そんなことを繰り返しながらこれまで生きてきたような気もする。

 森崎和江は私にとって、そのような人々のうちの一人であると同時に、それらの人々と対話する道をひらいてくれた人物でもある。

 植民地時代の朝鮮に生まれた森崎は、進学のため17歳で日本に渡るまでの時間を朝鮮の大邱、慶州、金泉で過ごした。この本は、朝鮮で過ごした時代を綴った自伝である。森崎は自身の「基本的な美感を、私は、私のオモニやたくさんの無名の人びとからもらった」(p9)と述べている。なかでも森崎は、「戦争も親の世界も遠いことのように思うほど」(p122)慶州に魅せらせていた。しかし、その慶州は、かつて、日本人植民によって避けがたい変化を強いられた場所だった。韓国の人々がそのことを今後も忘れはしないように、「わたしもまたそれを忘れ去ることはないだろう」(p128)と森崎は言う。森崎は、朝鮮によって精神を育まれながら、同時に自分が植民地で暮らす日本人でもあるという二重性を抱えてきたのである。

日本人は敵だ、と考えておかしくないと、わたしの中の朝鮮が言うのだ。それでいてわたしは内地に留学して勉強をし、朝鮮に帰って仕事をするつもりでいる。(p221)

 この二重性は、かつてアジアを植民地化し、無数の人々を踏みにじりながら、そのことを忘れて生きている私たちとも無関係ではないだろう。これらの二重性を消し去ることはできないが、それを抱えたまま生きていくための手がかりのようなものが、この本の中にはあるように思う。

 まず、この本には、森崎が朝鮮での生活の中で育んだことばがいくつも出てくる。たとえば森崎はこのように書いている。「「ロシヤ」ということばは生活感がともなっていた。ロシア人もよく見かけたし、そのくには地続きなのだといつしか知っていたから」(p64)。また、「米」や「繭」ということばにも、その作り手とともに過程があることを、生活していく中で少しずつ知ったという。このようにして具体的な実感とともにことばを育んでゆくことは、ときにある疎通をもたらす。森崎は朝鮮人の子どもと、互いに言葉が通じないにもかかわらず、「一言もものを言わずに、でも面白く遊んだのだった」(p104)。

 反対に、言葉が通じていても、ことばの意味を分かち合うこと、相手に何かを伝えることはときに困難だ。森崎は、父や弟が自らのことを「クマソ」(森崎の父によると(p96)、クマソとは「古代の自由人」)だと言うのに対して、「わたしは自分もクマソだと言いたかったが、父のように言えない障害となるものが自分の内や外にあるのを感じた」(p96)という。また、弟の死について、「韓国の知人に語るすべがない。が、その思いは、日本人に対しても同じであった。もし、通うことばがあったなら、彼も踏みとどまっただろう」(p234)とも書いている。

 敗戦後に亡くなった弟が、新制高校一年のときに書いた弁論で、「「敗戦の得物」である自由」について語っていたことに森崎は言及している(p239)。森崎にとっての自由と、弟にとっての自由は、かならずしも同じではなかったのだ。「父の、自由放任という言葉も、彼が小学校入学の頃はすでに禁句となっていた。わたしにとってそれは、戦時中の自分を屈折し続けながら支える、肉体の火の如きものであり、敗戦と同時に、挫折とも罪業ともつかぬ近代日本の暗部のように沈んだことばであったのだが」(p240)。

 敗戦から20年が経って、父が赴任していた慶州中高等学校の創立記念に招待された森崎は、卒業生の「ぼくに直接影響したのは日本ではありません。和江のおとうさんです。[……]わかり合えるものがあったということ、あの戦時下に。これは大きないみがあると思います」ということばを聞く(p166)。森崎はこうつづける。「それは今日では想像も困難な、屈折した、かすかな通路である」(p166)。

 また、ある人は森崎にこんなことばをかける。「和江さん、あなたとわたしらとは、共通の仔牛を持っていますよ。それを河向こうに渡らせるには、あなたの力がわたしにはいります。力を貸し合いたい、借り合いたい。それが明日にはもう駄目になってもいいのです。またわたしらの後の誰かが、きっと、そう言いますよ」(p246)。※本書246ページによると、「仔牛が川向こうに渡った」とは、韓国のことわざで、すっかり消してしまうこと。

 森崎和江が「忘れない」と言ったことを、私もまた忘れたくない。忘れないことによって、身動きがとれない状態になるのではなく、森崎和江が日本で戦後の時期を過ごしながら、ひたすら「どう生きていけばいいのか」と問いつづけたように(p235)、その後、長い時間をかけてさまざまな場所を訪れ、炭鉱の町に暮らし、「からゆきさん」に会い、玄界灘の沿岸から韓国につながる海を眺めながら世界地図を自らの手で書きなおしてきたように、その地図をいま私がながめているように、「屈折した、かすかな通路」を、それが明日にはだめになるのだとしても、何度でも探してみたい。

(森崎和江 2023『慶州は母の呼び声』筑摩書房 ※初版は1984年に新潮社より刊行)