「おくのほそ道」を旅する/芭蕉、ユルスナール、森崎和江(2024/9/27)

 東北への旅は半年ほどまえから決めていたことではあるが、具体的な計画もないまま、出発の日が近づいていた。出発まえのタイミングで、ちょうど「おくのほそ道」の新訳が文庫として刊行されることを知ったので、その本をカバンに入れて持っていくことにした。こうして私の旅は芭蕉とともにはじまった。

 旅をするときにはいつもいくつかのキーワードがあって、自分のあたまの中でそれらのことばを見失わないように、でもそれに縛られすぎないように、ことばとことばを繋ぐ道を探すようにして歩く。今回、出発のまえに私の中にあったのは、松尾芭蕉、芭蕉の足跡をたずねたマルグリット・ユルスナール、そして『北上幻想』を書いた森崎和江であり、私はこれらの一見して何の関連性もないキーワードを同時に心にとどめて歩くことで、そこに何かしらの道を見出そうとしていた。

 滞在時間は限られていたので、仙台空港に着いてすぐにレンタカーを借りて、そのまま平泉に向かった。古い杉の木立にかこまれた中尊寺の境内にはいくつかのお堂が点在していて、金色堂はその最奥部にある。金色堂は奥州藤原氏の初代清衡によって創建され、須弥壇には清衡、二代基衡、三代清衡の棺がいまもねむっている。

五月雨の降残してや光堂

 金色堂を訪れた芭蕉はこんな句を残した。この句は、新訳「おくのほそ道」では以下のような訳になっている。

毎年降り注いで地にあるすべてを腐らせてゆく五月雨だが、あたかも燦然と輝く金色の光に弾かれるように、光堂にだけは影響を及ぼせないままだ(p51)

 金色堂は何か異様ともいえる輝きを放っていて、私は思わずそこに立ちつくしてしまった。分厚い屋根とガラスに覆われてはいるものの、芭蕉がそこを訪れてから三百年以上が経ったいまも、光堂は五月雨にも朽ち果てることなく、燦然と輝いている。その輝きは、死者たちが残したもの、というよりは死者たちが常にそこにいることによって保たれているように私には思えた。そして、その死者たちとは、奥州藤原氏の三代にとどまるものではなく、光堂のように褪せることのない何かを探して彷徨うすべての人々だと思った。

 福岡県宗像市の大島には、陸奥国の棟梁一族として藤原清衡の先代にあたる、安倍宗任の墓がある。私はその近くで育ったが、そのこと自体は森崎和江の『北上幻想』を読むまで知らなかった。森崎は、宗任の墓を手がかりに、「いのちの母国」を探して北上へと旅をした。

権力を欲して争い合ってきた歴史や、弱者を商品化しながら築いてきた近現代の国家ではなく、そのひびわれの谷間や沼地やそして海で、呼びかわしつつ生き継いでいる魂の、その原郷があるはずなのだ。いのちの母国が。(『北上幻想』p76-77)

 森崎が探していたのは、「権力を欲して争い合ってきた歴史や、弱者を商品化しながら築いてきた近現代の国家」にも影響を及ぼすことができなかった何かであり、それは、たとえ近現代の歴史に表面的には覆い隠されたとしても、常にそこに存在するものである。

 ユルスナールもまた、もちろん森崎とはさまざまな面で異なっているが、近現代の流れに逆らって独自の旅を続けた人物という点ではどこか共通するところがあるように思う。ユルスナールはヨーロッパで貴族階級の末裔として生まれながら、世界中を転々とし、歴史と不可分の物語を紡ぎつづけた。芭蕉の足跡をたどるようにして松島や中尊寺を訪れたユルスナールが、北上で鬼剣舞を見ていた森崎和江が、いまも目のまえにいるような気が、平泉や北上を歩きながら、ずっとしていた。それは私にとって褪せることのない、光堂のようにいまこの瞬間も輝いている感覚である。

参照文献

『松尾芭蕉/おくのほそ道』松浦寿輝訳、河出書房新社、2024年

森崎和江『北上幻想ーいのちの母国をさがす旅』岩波書店、2001年

マルグリット・ユルスナール『東方奇譚』多田智満子訳、白水社、1984年

マルグリット・ユルスナール『新装版 ハドリアヌス帝の回想』多田智満子訳、白水社、2008年