「あいだ」にとどまる/『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』書評(2024/10/4)

 この本は、創元社「あいだで考える」シリーズの9冊目として刊行された。著者が翻訳した作品は、これまで私も10冊以上読んできた。私はそれらの作品を読むとき、日本語で読みながら、それが韓国語で書かれたものであること、つまり自分が読んでいるものが単に日本語でも韓国語でもないことを知っていた。著者は韓国の小説を翻訳しながら、「2つの言語と自分が同じトンネルに入っているような気がする」といい、同時に、「たまに、2つの言語がほんとに重なったと感じることもある」という(p5)。「「あいだ」は常に揺れているのだ」(p5)。

「韓国語でも日本語でもない、いや何語でもあるし何語でもない、もしかしたら言葉でさえない、言葉になる前の何かを重層的に体験しているような」(p5)

 本書の構成※「序に代えてーー1杯の水正果を飲みながら」(p4)と「おわりに」(p150)、「韓国語と日本語のあいだをもっと考えるための作品案内」(p152)をのぞく

 1章 말(マル) 言葉

 2章 글(クル) 文、文字

 3章 소리(ソリ) 声

 4章 시(シ) 詩

 5章 사이(サイ) あいだ

 

「昔から、この言葉を第二言語として学ぶ人は、口の中に起きる風に誘われて、気がついたらどこかちがう場所に立っていることが多かったのじゃないかと思う」(p11)

 1章の「말(マル)」の冒頭には、こんな言葉がある。私自身、K-POP、韓国文学などに触れるようになった数年まえから、この「風」と、「気がついたらどこかちがう場所に立っている」感覚に心を奪われている。著者が書くように、朝鮮語と日本語は「似ていてちがう」、「ちがうけど似ている」(p26)。「말(マル)」という言葉を日本語に訳すと「言葉」となるが、意味はおなじでも、そのニュアンスは異なっている。それは、「말(マル)」がそれぞれの歴史の中で形づくられてきたからであり、それらの歴史は当然、1910年から1945年までの日本による朝鮮半島への植民地支配と切り離すことはできない。

「マルは話され、聞かれるもの。そしてクルは書かれ、読まれるもの。マルとクルで世界は回る」(p40)

 さらに、「말」にも「글」にも託せないものが人間にはあるのだと著者は言う。それが3章の「소리」につながっていく。「소리」は声、音である。たとえば、著者は韓国で暮らしはじめた頃、金属打楽器の音が「チェンチェン、チェンチェン」と聞こえ、「前なら、カンカン、カンカンと聞こえたかも」と思ったという。このように、朝鮮語の「소리」を学ぶことは、それまで唯一で自明のものとして目のまえにあった世界が、唯一でも、自明でもないことを教えてくれる。金属打楽器の音は必ずしも「カンカン」である必要はないのだ。

 また、「소리」は、著者によると、「音」や「声」であると同時に、「人の思いのたけを伝えるもの」 というニュアンスを持つ(p85)。「言えなかったマル、書けなかったクルを含む、広大なソリの地層」(p91)が存在しているのだ。「소리」はときに「시(詩)」であり、痛みであり、喜びである。そして、今、その「소리」のやりとりが、隣国とのあいだ(사이)で少しずつ交わされている。

「韓国文学は今、日本で、それを必要とする人たちによって熱心に読まれている。これは朝鮮半島と日本の文化をめぐるこの100年の歴史の中で初めてのことだ。マルとクルとソリのやりとりは、始まったばかりの惑星群での経験である」(p130)

 実際に、著者が翻訳した作品を、あるいは著者の言葉を読みながら、私は過去と未来の間で、日本と朝鮮半島の間で揺れていて、そうやっているとき、何か幻のようにもみえる道、二つのうちのどちらでもあって、どちらでもない道が見えていた気がする。「「あいだ」は常に、生々しい「今」そのものだ」(p133)。私はこの言葉を読みながら、「今」は時間が過ぎればやがて過去になるが、それは未来にもなり得るとふと思った。それは、「今」を繰り返し生き続けていれば、その「今」がいつの間にか未来になっている瞬間が来るかもしれないという予感がよぎったからだ。だから私は、もう少し「사이(あいだ)」にとどまりながら、そこに絶えず新たな道ー幻のような、でも確かにその上を歩いてどこかに行くことができるー、その道の上で花開く言葉を、「人を殺さない言葉」(p8)を探してみたい。

(斎藤真理子『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』創元社、2024年)