エスターのように自由に、エスターのように美しく/『ベル・ジャー』書評(2024/9/13)
主人公であるエスター・グリーンウッドとおなじくらいの年齢のときに、はじめてこの小説を読んだ。2004年に刊行された青柳祐美子訳の『ベル・ジャー』はすでに品切になっていて、図書館の書庫から出してもらって夢中で読んだのを覚えている。エスターは、自分がどこにいてもガラスの覆い、つまりベル・ジャーに閉じ込められていると言った。そして、私自身もそのような感覚を知っていた。ベル・ジャーは透明なガラスでできていて、そこにベル・ジャーがあること自体、外から見ただけではわからないかもしれない。でも、ベル・ジャーの中にいる息苦しさは確かにそこにある。私はエスターではないが、自分がエスターとかけ離れた場所にいるとは思えなかった。
エスターは優秀な大学生で、有名出版社のインターンに選ばれてニューヨークに行くが、輝かしいものであるはずの将来を上手く思い描くことができない。
どの枝の先からも、丸々とした紫色のイチジクみたいに素晴らしい未来が、手招きしたりウインクしたりしている。[……]どのイチジクを選んだらいいか決められないのだ。あれもこれも欲しくて、ひとつを選んでしまったら、残りすべてを失うと思っている。そうして決められずにいたら、イチジクにしわが寄って黒くなり、ひとつ、またひとつと、足元の地面に落ちていった。(p118)
他にも、ベル・ジャーの破片となるものはたくさんある。たとえば医学生のバディ・ウィラードに対して抱かされる劣等感のようなもの、ミソジニストのマルコからの暴力、母親からの圧力、ローゼンバーグ事件に対する同僚の「あの人たちが死ぬことになって、ほんとうによかった」という言葉。エスターは、既存の社会を構成するどのような価値観にも馴染むことができない。だから、実際には言い返すことができなかった言葉を想像の中でバディに言ったり、同僚の言葉を聞いて衝撃を受けたときの状況を、後になって冷静に見つめようとしたりする。小説の中の言葉は、そのときそこにはなかったけれど確かにそこにある、エスターのもう一つの言葉であり、物語なのだ。
そして彼が微笑みながら、誇らしげな表情を見せると、わたしはこう言うのだ。「あなたが切り刻んでいる死体もそうだよね。あなたが治療してあげていると思い込んでいる人たちも同じ。あの人たちはみーんな塵、塵何だよ。でも良い詩っていうのは、その人たちを百人集めたよりも息が長いと思う」(p89)
ベル・ジャーの中で息ができなくなったエスターは、やがて精神病院に通わせられ、入院させられる。でも、精神病院に行ったからといって何かが変わるわけではない。最初にエスターの主治医になった精神科医のゴードン先生は、エスターにこう言う。
「なにが問題だと思うか、話してみてくれるかな?」
それに対して、エスターはこう思う。
「ほんとうはなにも問題なんてないのに、わたしだけが問題だと思い込んでいるかのような言い方だった」(本文では一部に傍点あり) (p197-198)
精神病院で、エスターは「電気ショック療法」を用いた治療を受ける。電気ショック療法とは、電気で頭部を刺激し、脳にけいれんを起こすことで、脳の機能を回復させようとする治療法である。エスターのこの体験は、1950年代のアメリカ社会と呼応している。というのも、アイゼンハワー時代、つまり冷戦下のアメリカでは、反体制の人々は電気ショックによって罰せられたからだ(「訳者あとがき」参照)。そのような時代状況の中で、社会に順応できず、精神を病むエスターは異常であるとみなされるのだ。でも、本当にそうだろうか?本当にエスターは異常なのだろうか?
そのような判断を下す暇があるのなら、エスターの言葉に耳を傾けたい。
「わたしはぜんぶ覚えている」とエスターは言う。
解剖用の死体のことも、ドリーンのことも、イチジクの木の話も、マルコのダイヤのことも、コモン広場の水兵のことも、ゴードン先生のところの外斜視の看護婦のことも、割れた体温計のことも、二種類の豆を運んできた黒人のことも、インスリン療法で九キロ太ったことも、空と海のあいだに灰色の頭蓋骨みたいに突き出した岩のことも。
もしかすると忘れて仕舞えば、雪のように、なにも感じなくなって覆い隠されてしまうのかもしれない。
でも、あれはぜんぶわたしの一部だった。わたしの風景だった。(p361-362)
私はエスターではないが、エスターのように自由に、エスターのように美しくあることができるなら、自分自身を、誰かを覆うベル・ジャーに目をこらし、ベル・ジャーの中から見える世界を、同時にベル・ジャーの外側に広がる世界を見つめようとするだろう。
(シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』小澤身和子訳、晶文社、2024年)