「たましいの遺産」/『新装版 ペルーからきた私の娘』書評(2024/5/31)

 『ペルーからきた私の娘』は、藤本和子が1975年から約10年近くのあいだ(※1)に、ニューヨーク、東京、カンサス、イリノイ、とさまざまな場所に生きながら、「どこに発表しようというはっきりした意図を前提にしないで」書かれたエッセイをまとめたものである。初版は1984年に晶文社から刊行されている。

 藤本和子は、リチャード・ブローティガンの作品を中心に翻訳者として広く知られているが、同時に、藤本自身が「なんらかのできごとや体験そのものと、それについて〈記す〉こととの間にある遠い距離について、わたしは、一人の作家のおこなった〈記す〉という営為を、もう一度べつの言語に置き換えるという作業を体験することで理解するようになったのではなかったか」(p230)と語っていることからもわかるように、自ら〈記す〉人でもある。

 この本に収められたエッセイは、書かれた場所も、時期も、テーマも異なっているが、先にも述べたように、既成の場や組織から紙面やテーマを与えられたのではない、それぞれの「できごとや体験そのもの」が藤本にそれを〈記す〉ことを要請したという点において共通している。表題作の「ペルーからきた私の娘」も、「白樺病棟の「高砂」」も、「かげりもない、パネイの夜ふけに」も、それぞれの偶然ともいえる出会いが藤本に〈記す〉ことをさせたのだと想像できる。

 さらに、これらのエッセイには、藤本が長い時間をかけて行ってきた、他者の声を「聞く」という行為が通底している。

 たとえば、「ペルーからきた私の娘」に登場するのは、生後3日で藤本のところへやってきた娘・ヤエルだが、藤本にとってヤエルは、あくまで「わたしとは別の一人の人間」(p13)なのである。生まれてまもないヤエルは、もちろんことばを放たないが、藤本は、ヤエルを迎えに行ったペルーの病院で、突然森崎和江の文章の一部を思い出し、病院を出たヤエルとともにペルー女性解放運動の指導者に会いに行き、「民俗学考古学博物館」へ行き、ヤエルと関係を結ぶ時間の中で聞こえてくる声と沈黙に耳をすます。

 それは、「白樺病棟の「高砂」」で藤本が「オキヤマさん」の沈黙を浮かび上がらせていること、「オムライス」で「ポール・ラドゲイト」の断片的に語られる過去と対話を試みていることとも繋がるものがあるだろう。

 なぜ、藤本和子は「聞く」ことをやめなかったのだろうか。『塩を食う女たち』の「あとがき」の中で、藤本はこう書いている。

閉じこめられたくない、という気持を抱いてわたしは暮らしてきたと思う。[中略]意識をくり返し脱皮し、ひろびろと視野を開いて、生の実質をつかみたいのだと感じてきた。他者のたたかいを見ることは、とりわけ生の実質を語る力を持つたましいの遺産を受け継いできたかにみえる、これらの女たちの言葉に接触できたことは、それについて多くの手がかりを与えてくれた。(p251-252)

 『ペルーからきた私の娘』の最後におさめられた文章には「たましいの遺産」というタイトルがつけられている。「たましいの遺産」は、作家であるトニ・ケイト・バンバーラのことばに「強くこころを動かされて」、その母であるヘレン・ブレホンに藤本が会いに行った際の聞き書きをもとに書かれたものだ。ヘレン・ブレホンについて藤本はつぎのように言う。「ヘレンはある種の内なる力、内なる炎のようなものに支えられて、頭をたれずに生きてきた女性である。差別も貧困も年齢もついに打ち砕くことのできなかった高潔と尊厳と希望に支えられてきた女性である。ひろびろしたこころを持って、かぎりない自由のたましいに導かれてきた」(p226-227)。

 そのような「たましい」は「遺産」となってトニ・ケイト・バンバーラに、藤本和子に受け継がれている。作家となったトニ・ケイト・バンバーラは、藤本和子にこう語った。「わたしがしようとしているのは、ある種のヴィジョンを死なせずにおこうということ。わたしたちを生きのびさせてくれたヴィジョンを。それを手放すわけにはいかないのだから。でもそれと同時にね、わたしは未来のヴィジョンを投げかけたい」(『塩を食う女たち』p154)。

 なぜ聞き続けるのか。誰の声を聞くべきなのか。聞くことができるのか。これらの問いに応答するための、自分のことばを探すことこそが、「聞く」ということでもあるのだろう。藤本和子の、あるいは藤本和子を通して語られることばはいま、まぎれもなく私を生かしている。その、一人の人間を生かし得る「たましいの遺産」を、私もまた次の世代の誰かに受け渡すことができるだろうか。

※1 「あとがき」を参照した。