世界は物語に満ちている/追悼ポール・オースター(2024/6/7)

 ポール・オースター(Paul Auster)をはじめて読んだのは数年前のことで、大学生活もなかばを過ぎようとしていた頃だったと思う。『ムーン・パレス』(1997)からはじまり、『孤独の発明』(1991)、『鍵のかかった部屋』(1993)、『ガラスの街』(2009)などを何かにとりつかれたように次々と読んだ。

 オースターの小説の中でも私が好きなのは『ティンブクトゥ』(2006)だ。この小説は、犬であるミスター・ボーンズの視点から語られるが、柴田元幸が「訳者あとがき」で書いているように、「犬が視点的人物であることを作者が過度に面白がったり、それをネタにして読者を愉しませようと過度に努めたりしていない」(p204)。ミスター・ボーンズと、長い間その「飼い主」であり、死をまえにした放浪詩人・ウィリーとのあいだには、認知する世界や身体的な差にもかかわらず、共通の場所「ティンブクトゥ」がある。

この何週間か、ウィリーからその話をさんざん聞かされていたから、来世というのが実際にある場所だとミスター・ボーンズは信じて疑わなかった。そこはティンブクトゥという名であり、ミスター・ボーンズが理解する限りどこかの砂漠の真ん中にあって、ニューヨークからもボルモチアからも遠い、ポーランドからも、一緒に旅を続けるなかで訪れたどの町からも遠いところにある。あるときウィリーはそこを「霊たちのオアシス」と呼び、またあるときは「この世界の地図が終わるところでティンブクトゥの地図がはじまる」と言った。(『ティンブクトゥ』p52-53)

 「ティンブクトゥ」はマリの地名だが、英語では「どこか遠い所」、「地の果て」などを意味する。この意味において「ティンブクトゥ」は実際には存在しない場所、ウィリーの幻想にすぎないが、それは、ミスター・ボーンズと共有されることによって形をもつ。ミスター・ボーンズは、ウィリーが死んだ後何度も夢を見て、その中でウィリーと話をする。ミスター・ボーンズは、ウィリーはティンブクトゥに行ったのだと信じ、自分もそこに行きたいと願う。そして、これらの夢や幻想が、ミスター・ボーンズに旅を続けさせる。ウィリーと話をすること、ウィリーと一緒に過ごした時間を思い出すこと、つまり「ティンブクトゥ」を思うことこそが、ミスター・ボーンズを「ティンブクトゥ」へと導くのである。

 オースターの作品の多くは、オースターが愛したニューヨーク、特にブルックリンが舞台になっている。その中の一つである『サンセット・パーク』(2020)は、誰かに貸してしまったまま、今は私の手元にないが、好きな小説だ。生きる場所を失い、社会から見捨てられた若者たちが誰にも見つからない場所で一緒に生活する様子には共感できたし、何よりも、問題が解決したり、状況がよくなったりするわけではない、しかし物語が続いていくことを思わせるような結末が記憶に残っている。

 オースターは、いわゆる小説だけでなく、ラジオ番組のために全国から募った実話を編成した『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』(2005)、幼少期からの回想録的な側面の強い『冬の日誌』(2017)『内面からの報告書』(2017)、書くことにまつわる話を中心としたエッセイ『トゥルー・ストーリーズ』(2004)など、実話を書き記すことにも深い関心を抱いていた。

 『トゥルー・ストーリーズ』の「あとがき」によると、オースターは、インタビューで「どうしてそんなに実話に興味を持つのか?」と問われた際、「きっと僕は、『現実の成り立ち方』ともいうべきものに心底魅了されているんだと思う。つまり、物事が実はどうやって起きているのか。人生の出来事がどのように生じるのか。そして、これは僕がいつも感じることなんだが、新聞やテレビでは、さらには小説でも、物事の真相が歪められているんじゃないか。現実が持っている、不思議で、意外な本質に、本当に向きあってはいないんじゃないか」と語っている(『トゥルー・ストーリーズ』p264-265)。その言葉のとおり、この本には、一見関係のないように見える物事と物事の不思議な繋がりが、オースター自身の体験をもとに書き記されている。人類学を学びはじめるまえの私が、ピエール・クラストルの名前を知ったのもこの本を読んだからなのだった。

 オースターは、世界が物語に満ちていることをおしえてくれる。物語の中ではどんなことも起こり得る。つまり、オースターの言う「現実」は、複雑で、予測不可能で、目には見えない、流動する無数の物事から成り立つ物語そのものであると言えないだろうか。不確かで不鮮明な現実は、常に、何かに縛り付けられることのない無限の可能性をもっているのである。だから、物語を信じることは、私たちが願う現実へと私たちを導いてくれる。少なくとも、オースターの物語を読んだあとでは、そう思わずにはいられない。

この文章に登場したオースターの著作※カッコ内はすべて邦訳刊行年

『ムーン・パレス』(柴田元幸訳、新潮社、1997年)

『孤独の発明』(柴田元幸訳、新潮社、1991年)

『鍵のかかった部屋』(柴田元幸訳、新潮社、1993年)

『ガラスの街』(柴田元幸訳、新潮社、2009年)

『ティンブクトゥ』(柴田元幸訳、新潮社、2006年)

『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』(柴田元幸ほか訳、新潮社、2005年)

『冬の日誌』(柴田元幸訳、新潮社、2017年)

『内面からの報告書』(柴田元幸訳、新潮社、2017年)

『トゥルー・ストーリーズ』(柴田元幸訳、新潮社、2004年)