シンボルスカとの何度目かの出会い(2024/6/21)

 ヴィスワヴァ・シンボルスカ(1923-2012)は、ポーランドに生まれた詩人で、1996年のノーベル文学賞受賞者でもある。はじめてシンボルスカの名前を知ったのは、大学を卒業する年に、ある人から贈られた谷郁雄のエッセイ集『日々はそれでも輝いて』(ナナロク社、2011年)を読んだからだった。その中に、シンボルスカについての文章があった。その時の私は、シンボルスカの名前を知り、そのまま、シンボルスカの詩集を開いてみることもなく通り過ぎた。にもかかわらず、シンボルスカという名前は不思議とあたまから離れなかった。

 その後、大学を卒業してすぐに、偶然開いた須賀敦子の本の中に、シンボルスカについての文章を見つけた。須賀敦子は、あるとき、友人から「一枚のふしぎな写真」を受けとる。その写真の中にいたのが、「ちょっと当惑したような深い表情で」テレビに映っていたシンボルスカであり、須賀にはそんなシンボルスカが「ずっとまえから知っているなつかしい友人に思えた」という。後に、シンボルスカの詩集を読んだ須賀はこう書いている。「シンボルスカは、自由自在でやさしい預言者を思わせる。写真の予感は当たっていた」(「写真の予感に導かれて」『塩一トンの読書』河出書房新社、2003年)。私もシンボルスカという人に会ってみたくなった。

 さらに、それから数か月も経たないうちに、書店をふらふらと歩きまわっていたところ、『シンボルスカの引き出し』(港の人、2017年)という本に出会うことになる。この本には、作家であり、ポーランド文学翻訳家である著者のつかだみちこが翻訳したシンボルスカの詩と、シンボルスカの死を悼んで記された追悼文が収録されていた。つかだみちこは、シンボルスカの詩「可能性」から「引き出しが好き」というフレーズを抜き出しながら、シンボルスカ自身にも、一般的に伝えられている「非常に控えめで質素な人」という一面とは別のさまざまな面があることを、自身のポーランドでの体験やシンボルスカとのかかわりからゆたかに描き出している。

 最近になって、韓国の詩人、キム・ソヨンのエッセイ集『奥歯を噛みしめる 詩がうまれるとき』(姜信子監訳、かたばみ書房、2023年)という本を読んだ。その本自体は、半年ほど前に買って、少しだけ読んだ後、部屋の本棚に眠っていたものだ。初夏の風が吹きはじめた頃、突然その本が読みたくなって、本棚からとり出し、眠るまえの時間、一週間ほどをかけて読んだ。その中にも、シンボルスカの詩について書かれた章があった。キム・ソヨンは、むかし、ヒマラヤ登山中に、少しでも荷物を減らそうと、リュックサックに入っていたシンボルスカの詩集をロッジの本棚に寄贈して帰って来たという。その後、詩人はシンボルスカに出会い直し、次のようなことに気付く。

「もしかするとシンボルスカの辞書には、「ありきたり」という言葉自体が存在しないのかもしれない。なにごともありきたりでないという前提の中で、具体的な詩語が生まれるからだ。ありきたりとありきたりでないこと、大切なことと大切でないこと、役立たずと役立たずでないこと、美しいことと美しくないこと、こんな区別をせずにいることが、彼女の特別さだ」

キム・ソヨン『奥歯を噛みしめる 詩がうまれるとき』姜信子監訳、かたばみ書房、2023年

 シンボルスカがノーベル文学賞を受賞した1996年、私はまだこの世にいなかった。そして、私がシンボルスカを知ったとき、シンボルスカはすでにこの世にいなかった。でも、今、シンボルスカの詩は、何度かの偶然と出会いを経て、私の中にある。

 1997年に日本で翻訳出版された詩集『終わりと始まり』(沼野充義訳、未知谷、1997年)の巻末には、シンボルスカのノーベル文学賞記念講演が収録されている。その講演の中に、こんなことばがある。

「世界ーーわたしたちはその巨大さと、それに向き合ったときの自分の無力さに怯えたとき、世界について何を考えるでしょうか。わたしたちは個々の存在の苦痛に対して、つまり、人間や、獣や、そしてひょっとしたら植物の苦痛に対してまでもーーというのも、いったい植物が苦痛を感じないなどと確信を持って言えるものでしょうかーー世界が無関心であることにひとく落胆させられます。わたしたちは、星々の放射する光に貫かれた、世界の広々とした空間について何を考えるでしょうか。その星々のまわりには、すでにいくつもの惑星が発見され始めていますが、いったい、それらの惑星はすでに死んでいるのでしょうか、それとも、まだ死んでいるのでしょうか」

ヴィスワヴァ・シンボルスカ『終わりと始まり』沼野充義訳、未知谷、1997年

 私自身、これまで、なかばあきらめるような思いで、世界の終わりにばかり目を向けてきた気がする。しかし、終わりを見つめることは、始まりを見つめることでもあったのかもしれないと、シンボルスカのこのことばを再び聞いたときに考えた。

 「未来」と言うと

それはもう過去になっている。

「静けさ」と言うと

静けさを壊してしまう。

「無」と言うと

無に収まらない何かをわたしは作り出す。

†

※1 本文中で傍点が振られている箇所を、ここでは太字に変更した

※文中では、傍点の代わりにアンダーラインを使用した

参照文献

谷郁雄『日々はそれでも輝いて』ナナロク社、2011年

須賀敦子『塩一トンの読書』河出書房新社、2003年

つかだみちこ『シンボルスカの引き出し』港の人、2017年

キム・ソヨン『奥歯を噛みしめる 詩がうまれるとき』姜信子監訳、かたばみ書房、2023年

ヴィスワヴァ・シンボルスカ『終わりと始まり』沼野充義訳、未知谷、1997年

ヴィスワヴァ・シンボルスカ『瞬間』沼野充義訳、未知谷、2022年