王子さまのように/サン=テグジュペリと須賀敦子(2024/7/26)

 サン=テグジュペリの『星の王子さま』を実際に読む以前から、その中の台詞を時々耳にすることがあったからなのか、大学生になるまでまともに『星の王子さま』を読んだことがなかった。当然、サン=テグジュペリの他の作品も知らないまま過ごした。

 大学を卒業して、自分の進路をなかなか決められずに本ばかり読んでいた私は、半世紀以上まえ、おなじように「自分の行くべき方向を決めかねてそのために体調をくずしていた」という須賀敦子の文章に出会った。須賀が大学を出た年の夏、友人たちに誘われて出かけた旅行の荷物の中には、サン=テグジュペリの『夜間飛行』と『戦う操縦士』が入っていた。それからながい時間が経ったあと、須賀の手元には「傍線・付箋だらけ」の『戦う操縦士』が残された。その中から須賀は、次の文章を抜き出している。

「建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである」(※1)

 このことばは、「人生のいくつかの場面で、途方に暮れて立ちつくしたとき」、あるいは「自分がこうと思って歩きはじめた道が、ふいに壁につきあたって先が見えなくなるたびに」、須賀を支え、その羅針盤であり続けた。私は、須賀のことばを私自身の「羅針盤」のように思うと同時に、須賀を導いたサン=テグジュペリのことばと思想に再び出会い直したかった。

 サン=テグジュペリは作家であると同時に飛行士でもあった。『星の王子さま』、『戦う操縦士』、『夜間飛行』、『人間の土地』と、サン=テグジュペリの物語には飛行士が登場する。サン=テグジュペリ自身の飛行士としての経験と、これらの物語を切り離して考えることはできない。実際に、サン=テグジュペリ自身もインタビューで「私にとって、空を飛ぶことと書くことは、まったくひとつなのです。重要なのは行動すること、そして自分自身の位置を自らのうちで明らかにすることです。飛行士と作家は、私の意識のなかで同じ比重をもって渾然一体となっています」(「解説」『戦う操縦士』p303より)と語っている。

 『戦う操縦士』は、第二次世界大戦中、偵察のために軍用機を操縦していたサン=テグジュペリの経験に基づいて書かれた物語である。実際に、この作品はアメリカが連合国側に立って参戦することを促す出版社側の意図と切り離せないものであったし、参戦直後のアメリカでも大きな成功を収めた。にもかかわらず、「解説」にあるように、「そもそもこの作品の骨子となる偵察飛行は、物語のはじめからすでにその無意味さが繰り返し強調されている」(「解説」p315)。たとえば、語り手である「私」は、「なぜ死ななければならないのか」(p29)問う冷静さを持ち合わせている。また、「私」は、任務中にもかかわらず、さまざまな記憶と思索にとりつかれていて、「死が待ち構える場所に近づくにつれて、自分自身の起源の場である幼年時代という「広大な領土」がいっそう強く立ちあらわれてくる」(「解説」p317)。

「攻撃はさらに激しくなっているかもしれないが、私は相変わらず内側にとどまっている」

サン=テグジュペリ『戦う操縦士』鈴木雅生訳、光文社、2018年、p189

 サン=テグジュペリは、戦争によって崩壊した世界を空から眺めながら、崩壊以前にそれらを互いに結びつけていたものに思いをめぐらせる。死の危険が待つ領土に近づくにつれて、内面では記憶の中の「広大な領土」に近づいてゆく。あるいは、不時着した砂漠で小さな王子さまに出会う。そのどちらかが現実というわけではなく、切り離すことのできないこれらすべてが、サン=テグジュペリにとって「自分自身の位置を自らのうちで明らかにする」試みだったのかもしれない。

 サン=テグジュペリの作品について書かれた須賀のエッセイには「星と地球のあいだで」というタイトルがつけられている。「星と地球のあいだ」にいたサン=テグジュペリは、一方の側からだけでは見えない物事の結びつきや、移り変わってゆくさまざまな光景を見ていたのではないだろうか。その視点は絶えず変化する。砂漠に不時着したサン=テグジュペリは、最初、砂漠の真ん中で火を焚きながら誰かに見つけてもらうことを望むが、やがて「役割の転倒」(『人間の土地』p183)が起こる。砂漠で救援を待っていたはずのサン=テグジュペリは、「彼方で人々が助けてくれと叫んでいる」こと、「人々が難破しかけている」ことに気づき、「ぼくらが駆けつけてやる!……ぼくらのほうから駆けつけてやる!ぼくらこそは救援隊だ!」と語りはじめる。

 去年の末になんとなく選んだ『星の王子さま』のカレンダーを、毎月めくるたびについながい間眺めてしまう。小さな星に膝をかかえて座っている王子さま、尖った崖の上にスカーフをたなびかせながら立っている王子さま、砂漠で井戸をのぞきこんでいる王子さま。王子さまは、たしかに「王子」にはちがいないのだが、それは、どの国の王子でもなく、ただ一人、自分だけの国の王子なのだ。王子さまは別の星へ旅に出る。そこには未知のもの、かけがえのないいくつもの出会いが待っている。カレンダーを眺めながら、私も小さな王子さまのようにありたいと願う。

※1  須賀敦子「星と地球のあいだで」『遠い朝の本たち』筑摩書房、2001年、p125

参照文献

サン=テグジュペリ『戦う操縦士』鈴木雅生訳、光文社、2018年

サン=テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮社、1955年

須賀敦子「星と地球のあいだで」『遠い朝の本たち』筑摩書房、2001年、p115-130