茅辺かのうという生き方(2024/8/8)

 茅辺かのう『アイヌの世界に生きる』を2021年の刊行後すぐに手にとってから、3年が経った。『アイヌの世界に生きる』から強烈な印象を受けたものの、著者である茅辺かのうについては、一人で北海道に渡り、十勝のアイヌ農家の家に泊まり込んでアイヌ語の口述筆記を行った人物であるという認識にとどまっていた。茅辺について知りたかったが、本文中には著者自身に関する個人的な経歴などへの言及はなく、表紙カバーの見開き部分に略歴らしきものが記載されているだけで、インターネット上にもほとんど手がかりはなかった。私はこの『アイヌの世界に生きる』をお店の棚に並べ、その本が売れたのをきっかけに、再び『アイヌの世界に生きる』、そして茅辺かのうに意識を向けるようになった。

 『アイヌの世界に生きる』にも茅辺の経歴は書き込まれていたはずだが、私が茅辺かのうとは筆名であること、茅辺がアイヌの人々とかかわりながら生きる以前に、網走での水産加工場勤務、帯広での住み込みの農業労務を行いながら暮らしていたことを知ったのは、2023年に月曜社から刊行された『階級を選びなおす 茅辺かのう集成』を読んだ後だった。茅辺(※1)は京都に生まれ、京都大学を中退後、東京で編集者として働き、編集者の仕事の傍ら、1960年頃には安保闘争や三池闘争の支援活動にかかわっていた。茅辺自身は炭鉱労働者の支援活動について「気持の上では勤めより大切にしていた」と述べている(p8『アイヌの世界に生きる』)。そして、茅辺よるとこの頃、「生活と意識のズレ」が大きくなり、「どちらにも徹底しない曖昧な状態」が続いていた(p8『アイヌの世界に生きる』)。

 『アイヌの世界に生きる』は、本州からの開拓移民の子として生まれながら、アイヌ女性の養子としてアイヌ文化を受け継いで生きてきた「トキさん」からの依頼に応じて行ったアイヌ語の筆録と、筆録のためにトキさんの家に泊まり込んだ20日間ほどの記録から構成されている。トキさんは茅辺に、「生い立ちの話をぜひ聞いてもらいたい、そうすればアイヌ語の記録を思い立った自分の気持がわかると思うし、わかった上でアイヌ語の説明も聞いてほしい」と語った(p33『アイヌの世界に生きる』)。茅辺はトキさんの呼びかけに誠実に応える一方で、実母を「自分を捨てた」人物として責めるトキさんについて「養母の乾いた気性に対して、実母の哀願するような態度は、それが社会的につくられた日本人の女性の一面であるとは思いおよばず、自分自身の感性にそぐわないものとして見棄てることができた」(p89『アイヌの世界に生きる』)と書くような批判的な視点も持ち合わせている。なお、ここで茅辺が批判しているのはトキさんではなく、トキさんをそのような状況にまで追い詰めた、アイヌを自らの一部として取り込んだ挙句、その末端に位置づけてしまうような日本社会のあり方である。

 アイヌ語を筆録することは、語り手であるトキさんにとっても、聞き手である茅辺にとっても容易なことではなかった。二人はいくつかの項目に分けて筆録をすすめていくが、アイヌの生活世界と密接に結びついたアイヌ語を日本語に置き換えることは本来不可能である。トキさん自身が「アイヌ語を残すためにその「文字」を使い、しかも人に頼まねばならないという矛盾に気づいている」こと、茅辺がアイヌ語を「ひとつの日本語に置き換えるだけでは意味の通じない単語が多い」、「いくつかの項目を立てて分類すること自体に無理があった」と述べていることからもわかるように(p112-113『アイヌの世界に生きる』)、アイヌ語を話すこと、そしてそれを聞くことは、日本語に置き換えることができない世界を生きることでもあった。茅辺は、トキさんが「語ることによって鮮やかに浮かび上がる養母との日々に浸り、その世界の住人になりきっていた」ことに気づき、自らもトキさんの話を聞くことで「語ることによって生きていた文字のない言葉と人間との関わりが、どれほど緊密なものだったかを、おぼろげに感じることができた」と書いている(p204『アイヌの世界に生きる』)。

 このような筆録が行われるに至った背景には、1962年に茅辺が単身北海道へ渡ったことが関係しているが、そもそもなぜ茅辺は北海道へ向かうことになったのだろうか。

 そこには、敗戦後も変わることのなかった天皇を頂点とした実質的な日本の階級制度への批判があったように思う。茅辺は「戦争終結を知った時、「戦争」に対して自分たちは全て等距離にあったと思いこみ、実は置かれていた立場によって違うのだということを、認識しなかったのではなかったろうか」と問い、「だから、目にみえる即物的な「物のない」ひどいくらし、という実感の段階で、みんな戦争の(等質の)被害者であるという共感をまず抱いた、といえる」と書いている(p451『茅辺かのう集成』)。

 先述したように、アイヌを植民地化した日本は、自らが抱え込む階級制度の末端にアイヌを位置付けた。「狩猟採集民・漁民でありほとんど農業を行わなかったアイヌは、日本人によって強制的に貧しい土地に移住させられた上で、日本人が日本人のために導入した農業に従事させられた」(p9『アイヌがまなざす』)。茅辺が北海道で出会ったトキさんをはじめとするアイヌの人々も、そのような状況の下で農業を行っていたと推察できる。茅辺は、そのような社会構造の中で、さらにそのような社会に生きることの行き詰まりの中で、自分が「生きる上での前提、当然だと思っている一定の線から先のところでばかり生きて来たのではないか」(p37『茅辺かのう集成』)と考え、日常生活を一から組み立て直そうとしていた。そして、そのためには、北海道に渡ること、さらに「茅辺かのう」というもう一つの名前が必要だったのではないだろうか。

意識の変革ということがあるとすれば、意識的無意識的に身につけてしまったものを、そこに上載せするのではなく取り去ろうとする意志の中にしかないのではなかろうか。無意識部分はほとんど、偶然に生まれおちた時間と空間によって占められているといえる。取り去ることができないときまっているものを取り去ろうとする意志である。そのためには、居心地の良さ、安定性を少し我慢して、ほんのわずかでも具体的に体を動かし、疑おうともしなかったことや見慣れたものに、わずかながらも動いただけの視点を当て直す、そういうところにしか、意識の変革ということは認められないだろう。

(p445『茅辺かのう集成』)

 茅辺は、「度しがたく変わらない部分とその現象との距離を測りながら、人間の拠るべきところ、あるべき世界への想像力をかきたて、わたしの占める場所をたしかめ続けたいという思いは強い」(444-445)と書いた。茅辺が言うように、私たちはもう一度、いや、何度でも、常に、「意識的無意識的に身につけてしまった」価値観や制度を取り去ろうとしなければならないのではないだろうか。知らず知らず内面化してきたそれらを取り去ることなしに、「あるべき世界への想像力」はあり得ないのだから。

※1 本名は井上美奈子。ここでは筆名である茅辺かのう表記を用いる。

参照文献

茅辺かのう『アイヌの世界に生きる』筑摩書房、2021年

茅辺かのう『階級を選びなおす 茅辺かのう集成』月曜社、2023年

石原真衣・村上靖彦『アイヌがまなざすーー痛みの声を聴くとき』岩波書店、2024年