アーカイブ: BLOG

  • 未来を散歩する/『未来散歩練習』書評(2024/7/24)

    「でも、私たちが本当に向き合うことができるなら、お互いの手を見つめていた顔を上げて向き合うなら、そのとき私たちには言えることが何もないだろうか。そうではないだろう」

    (パク・ソルメ『未来散歩練習』斎藤真理子訳、白水社、2023年、p101)

     この本の語り手である「私」は、ソウルから釜山に通いながら物語を書く生活を送っている。「私」は釜山で出会ったチェ・ミョンファンという女性と交流しながら、さまざまな場所を歩き、さまざまなものを食べたり飲んだりする。ある日、釜山のマンションの内見に行った「私」は、その部屋の窓から釜山アメリカ文化院の建物(※1)が見えることに気が付く。「私」は1982年に起きた釜山アメリカ文化院放火事件(※2)の実行犯である「彼ら」のことを想像し、「彼ら」が「1980年5月に光州で起きたことに対する米国の責任を問い、アメリカ文化院に放火した」(p81)ことを思い、「彼ら」の中の一人が後に翻訳したボブ・ディランのインタビューを読んでこう考える。

    「私はこの本の翻訳者と、彼と共にアメリカ文化院に放火した人たちは、光州という事件の意味を絶え間なく自分に問いかけ、以後、時間というものの意味を自らに問い、そして自ら答えたのだろうと考えはじめた。同時に、80年5月に彼ら自身が光州にいたならばという仮定を何度も何度も反復したのだろうと思った。それから不意に、そうではないだろうと思った。彼らが反復したのは、そのとき彼らがそこにいたならばということではなく、そのときそこに誰かがいたという取り返しのつかない過去の事実だっただろう。[……]それでもなぜだか、彼らが自ら新しい世界を信じて生き延び、何度も何度もくり返し、未来を現在に引き寄せようとしたのだろうという推測は続いた」

    (パク・ソルメ『未来散歩練習』斎藤真理子訳、白水社、2023年、p82)

     この「私」の物語と平行して語られるのが、スミとユンミ姉さん、そしてジョンスンの物語だ。釜山アメリカ文化院放火事件の実行犯の一人であるユンミ姉さんはスミの叔母であり、スミが中学生のときに刑務所を出てスミの家にやって来る。ジョンスンはそのときからのスミの親友であり、大人になってからも互いの近況を話し合う存在だ。「私」の物語が現在を軸として語られるのに対し、スミの物語は、1980年代から現在に至るまでのながい時間を軸に語られる。これら二つの物語は、散歩中に移り変わる景色のように交互に語られながら、読者に、過去でも未来でもない、しかし過去や未来と切り離され、単純化された瞬間としてではない現在を見せてくれる。

     物語の中で、「私」は歩きながら釜山アメリカ文化院の建物を見たり、1982年に事件を目撃したチェ・ミョンファンと話をしたりする。そのようにして散歩する中で、「私」は人々がそのとき見ていたものを想像し、そのときそこにいた人々が想像した未来と出会う。「私」が散歩しながら見るものは、1982年の釜山に、1980年の光州につながっている。

     散歩は、過去や未来のあらゆるものごとが近づいたり遠ざかったり、離れたり結びついたりしながら目のまえにあらわれる、常にあたらしい景色を見せてくれる。その瞬間の景色は確実なものではけっしてないが、そのとき私たちが見るものは、「彼ら」が練習した未来、「私」が「切実に蘇らせたい、作り出したい」(p14)と願った未来、私たちがこれから生きる未来かもしれない。そして、この本を読むことそのものが散歩すること、つまり過去と未来のあいだの「練習」の時間である現在を生きることでもあるのだろう。

    (※1)現在は釜山近現代歴史館になっている

    (※2)1982年3月、神学生らが政権打倒と反米闘争を訴えて釜山アメリカ文化院に放火した事件。事件の背景には、1980年に光州で起きた民主化運動における米軍の責任を問う思想がある。(「訳者あとがき」参照)

    (パク・ソルメ『未来散歩練習』斎藤真理子訳、白水社、2023年)

  • 結末のない物語/ソフォクレスの『アンティゴネー』と近現代の『アンティゴネー』(2024/7/12)

     ヴァージニア・ウルフがその著作(※1)の中で何度もソフォクレスの『アンティゴネー』に言及していたことをきっかけに、古代ギリシア悲劇であるこの物語に興味を持つようになった。

     ギリシア神話に登場する都市国家・テーバイの王女であるアンティゴネーは、テーバイの王・クレオーン(アンティゴネーの父・クレオーンの義弟)の命、つまり国家の法にそむいて、兄・ポリュネイケースの亡骸を埋葬する。国家の法にそむいたアンティゴネーは、国家の法とは別の「法」をつらぬくことを望む。

     ソフォクレスの『アンティゴネー』は紀元前442年頃に書かれたとされているが、『アンティゴネー』の物語は、たんに神話や古代悲劇としての物語にとどまるだけでなく、現在に至るまで翻案小説や翻案劇が書かれ、上演され続けている。たとえば、もっとも広く知られているものの一つとして、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの『アンティゴネ』(谷川道子訳、光文社、2015年)が挙げられるだろう。ブレヒトは、ナチスが台頭するドイツからの十数年にわたる亡命生活の中でこの劇を書いた。

     ブレヒトの『アンティゴネ』に付された「序景」は、1945年4月のベルリンが舞台になっている。ここでは、第二次世界大戦のさなか、防空壕から家に戻ってきた姉妹のところにナチスの親衛隊員が入ってくる場面が描かれている。また、1951年の上演に際して書かれた「新しいプロローグ」には、「最近、似たような行為が私たちにあったのではないか」(p20)ということばがある。本編自体はソフォクレスの『アンティゴネー』の時代背景に則しているが、この「序景」と「プロローグ」は、ブレヒトの『アンティゴネ』がソフォクレスの『アンティゴネー』とはまったく別のものであることを示しているように思う。クレオンは国家の法にそむくアンティゴネに「大地を、この故郷を侮辱するのか」と問うが、それに対してアンティゴネは「違います。大地は憂いのもと。故郷とは、大地だけではない。家だけでもない」(p55)と答える。ブレヒトの『アンティゴネ』が書かれた1940年代から1950年代、中東ではイスラエルが建設され、東アジアでは朝鮮半島が北と南に分断された。

     2017年のブッカー賞最終候補作の一つであるカミーラ・シャムジーの『帰りたい』(金原瑞人・安納令奈訳、白水社、2022年)もまた、『アンティゴネー』の翻案小説として書かれた。ロンドンでムスリムとして生きる3人の姉弟は、「二重国籍者」であらざるを得ない状況の中で、やがて窮地に追い込まれていく。姉弟の「帰りたい」という願いは、国家の法によって踏みにじられる。

     他にも、北米先住民ネズパース族の作家ベス・パイアトートによる戯曲『アンティコニーー北米先住民のソフォクレス』(初見かおり訳、春風社、2024年)が挙げられる。舞台は現代アメリカで、アンティコニ(アンティゴネー)は、死者を弔うために、国立アメリカ・インディアン博物館に保管されている兄たちの亡骸を運び出す。アンティコニはこう語る。「本来自分たちに属するものに触れる者、苦しみから解放されずにいる人びとに安息をもたらそうとする者は、刑務所送りになります」(p23)。また、盲目のシャーマン・テイレシアースは「死者たちを幽閉すれば、生者たちも囚われ人となる」(p107)と言う。パイアトートのこの戯曲は、インディアン博物館の館長、つまり支配者であるクレオーンさえも、白人の為政者たちによって抑圧されているという構造を持っている。

     『アンティゴネー』とその翻案は、時代や状況によって、物語の背景や登場人物の立ち位置、台詞のニュアンスなどが異なるが、そこに通底しているのは、これらの物語がたんに悲劇にとどまるものではないということだ。アンティゴネーは国家の法にそむいたために悲劇的な最後を迎えるが、『アンティゴネー』の物語自体は、約2500年の間、その形を変えながらも終わることなく続いているのである。

     ウルフによると、「法」とは私たちがそれぞれの時代において「理性と想像力を駆使して新たに見出さねばならない」ものである(『三ギニー』p317)。「死者たちを幽閉すれば、生者たちも囚われ人となる」。そして、死者たちを弔うための「法」は、この世界を支配する近代の法を越えたところに存在するのではないだろうか。

    ※1 ヴァージニア・ウルフ『三ギニー 戦争を阻止するために』片山亜紀訳、平凡社、2017年

    参照文献

    ソポクレース『アンティゴネー』中務哲郎訳、岩波書店、2014年

    ブレヒト『アンティゴネ』谷川道子訳、光文社、2015年

    カミーラ・シャムジー『帰りたい』金原瑞人・安納令奈訳、白水社、2022年

    ベス・パイアトート『アンティコニーー北米先住民のソフォクレス』初見かおり訳、春風社、2024年

    ヴァージニア・ウルフ『三ギニー 戦争を阻止するために』片山亜紀訳、平凡社、2017年

  • 「アウトサイダー」であること/『三ギニー』書評(2024/7/5)

     ウルフがこの本を書いたのは約90年前である。90年前と現在との間には、時間的にも空間的にも大きな隔たりがあるにもかかわらず、この本の中で指摘されているさまざまな問題はけっして過去のものとはいえない。というのも、ウルフが生きた90年前も今も、「戦争を阻止するために」何ができるのかを具体的かつ性急に考えなければならないという切迫した状況に置かれているという点では同じであり、また、私たちが自由に使えるお金は相変わらず「三ギニー」ほどであるからだ(※1)。

     この本の中で、ウルフは女性、あるいは社会的に抑圧された立場にある人々が自由に使えるお金を「三ギニー」と仮定して、その大切な「三ギニー」の使い道になぞらえながら、「戦争を阻止するために」私たちができることは何か問いかけている。「戦争を阻止するために」ということばは、教育も地位もお金も持っているはずの、「文化と知的自由を護る会」の男性からウルフが受け取った手紙の「どうすればわれわれは戦争を阻止できるとお考えですか?」という質問からとられている。

     ウルフが考え出した使い道は、一ギニーを女子学寮建て替え基金に、一ギニーを女性の就職支援団体に、一ギニーを「文化と知的自由を護る」協会に寄付するというものだ。ウルフは、自らの能力を誇示したり、軍務に従事することによって虚栄心を満たすような既存のーー戦争に向かう社会を根底から支えてもいるーー価値観とは別の価値観を持つ自らを「アウトサイダー」として、「新しい言葉を見つけ、新しい方法を創造すること」(p262)によって、「戦争を阻止する」という共通の目的を果たすために協力すると語る。

     女子学寮建て替え基金に寄付された一ギニーは、教育それ自体が教育の目的、つまり教育によってどんな社会、どんな人間を育てるべきかを常に問い続けることを要求している。さらに、女性の就職支援団体に寄付された一ギニーは「職業を、自分一人の精神と自分一人の意志を持つのに使える」ようにすること(p154)、「文化と知的自由を護る」協会に寄付された一ギニーは、自らの手で価値あるものを作り出し、自らの目で価値を見出すことを要求している。そして、これら三ギニーはそれぞれ別の団体に寄付されているものの、「戦争を阻止する」という共通の目的を持っている。つまり、一見何の関係もないように見える教育や職業、文化と知的自由が、たしかに「戦争を阻止する」ことにつながっているのである。ウルフがこの本を書くことで証明しているように、文学もまた例外ではない。

     ウルフがこの本を書き終えた翌年には第二次世界大戦が始まり、それから約2年後にウルフは入水自殺した。つまり、訳者も書いているように、この本は「第二次世界大戦も阻止できなければ、作者自身の自殺も阻止できなかったことになる」(p400)。実際に、出版当時は、この本をたんに理想論だとする意見も多かった。しかし、訳者はこうも書いている。「だが戦争を阻止するには文明全体を変えなくてはならないと訴える本書に即効力を期待しても、ないものねだりかもしれない」(p400)。にもかかわらず、この本が書かれてから1世紀が経とうとしている今、なぜ私たちはいまだに「どうやったら戦争を阻止できるのでしょうか?」と問い続けているのだろうか。

     「アウトサイダー」であるウルフはこう語る。「実際、女性であるわたしに国はありません。女性であるわたしは国などほしくありません。女性であるわたしにとって、全世界がわたしの国なのです」(p199)。これは、「何体もの遺体と何棟もの倒壊家屋」から目をそらすことのなかったウルフの切実なことばだろう。

     私たちは、自分が本当はどんな世界を望んでいるのかをもう一度考えてみる必要がある。そして、ウルフのことばを手がかりとして、私たちが持っている「三ギニー」の使い道を何度も検討しなければならない。私たちは一人一人が「アウトサイダー」であることができる存在、少なくとも、今ある世界の外側を想像することができる存在であるはずなのだから。

    「あなたがたもわたしたちも、[……]抵抗できず、服従する他ない受け身の傍観者ではない、思考と行動によってその姿を変えられる」

    ヴァージニア・ウルフ『三ギニー 戦争を阻止するために』片山亜紀訳、平凡社、2017年、p260

    ※1「訳者あとがき」には三ギニー=約3万円程度であると説明されているが、お金の価値そのものが変動的であることや、時代や状況によって「自由に行使できるお金」は異なることなどから、ここではどちらかというと概念的な用語として「三ギニー」を捉えている。

    (ヴァージニア・ウルフ『三ギニー 戦争を阻止するために』片山亜紀訳、平凡社、2017年)

  • 思いもよらないことば/『オーバーストーリー』書評(2024/6/28)

     著者であるリチャード・パワーズ(Richard Powers)は、『オーバーストーリー』の着想を、カリフォルニア州北部をハイキングしているときに見たレッドウッドから得たとインタビューで語っている。そのレッドウッドは樹齢2000年ほどの木で、その前に立っていると、自分でも思いもよらないことばが出てきたのだという。私自身も、パワーズのインタビューを読んで、屋久島の縄文杉を見たときのことを思い出した。驚異的な存在をまえにした自分は、それまでの自分ではありえないのだった。

     樹木はまた、とても身近な存在でもある。最近、海の中道海浜公園の西駐車場を覆っていた木々が突然すべて切り倒され、西戸崎へと続く三叉路の景観は全く変わってしまった。木々のない曲がり角の景色に違和感を抱いているのは、私だけではないはずだ。地球上の木々がものすごいスピードで伐採され、切り開かれた土地に新たな何かが建てられるにつれて、海面が上昇し続けていることに気づいていない人もいないだろう。

     リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』は、樹木と、樹木をめぐる9人の人間の物語だ。「オーバーストーリー」は、英語で、樹木の一番高いところ、つまり枝や葉が茂っている部分である「樹冠」を意味する。しかし、この小説のタイトルである「オーバーストーリー」とは、「物語を超える物語」を意味してもいる。つまり、小説が語るのは人間の物語であるが、それと並行して、そしてそれを超えたところに、人間には想像することさえできない樹木の物語がある。人間の物語は、樹木の物語を代弁することができない。

     とはいえ、二つの物語は互いに絡まり合ってもいる。無数の樹木の根が地面の下で互いに絡まり合っているように。たとえば、登場人物の一人であるニコラス・ホーエルの生家には、20世紀前半に流行した胴枯病から一本だけ生き残った栗の木がある。同じように、絶滅したはずの栗の木は、なぜか、レイ・ブリンクマンとドロシー・ガザリー夫妻の裏庭にもある。ダグラス・パヴリチェクは、従軍中、樹木に命を救われる経験をしている。ニーレイ・メータが車椅子に乗っているのは、幼い頃に木から落ちたことが原因だ。オリヴィア・ヴァンダーグリフは、感電死からよみがえった後、樹木の声を聴くことができるようになる。

     この本は、「根」「幹」「樹冠」「種子」の4つの章で構成されている。「根」において、9人の登場人物は、互いのことを知らないまま、別々の場所で、別々の人生を送っているように見える。しかし、「幹」においては、それぞれの人生が交わり合っていることがしだいに明らかになってゆく。たとえば、家族が死に絶えた家で、一人栗の巨木を守っていたニコラス・ホーエルのもとを偶然訪れるのがオリヴィア・ヴァンダーグリフであることを、「根」の時点で私たちは予測することができない。「樹冠」では9人の絡まり合う関係性によって形づくられた樹上占拠(※樹木が伐採されることを阻止するために、樹上に座り込みをすること)という行為が、「種子」では樹上占拠という「犯罪」によって起こされた裁判の結果を含むその後の経緯が描かれている。

     自分の生と樹木とが、互いに別々の時間を生きながらも、「根」の部分でつながっていることを深く理解する人々が、原生林を守るために起こした闘争は、「犯罪」なのだろうか。その「犯罪」をめぐる裁判について、レイ・ブリンクマンは、「犯罪者」側の視点から「何としても勝たなければならないと悟る」(p662)。「このままだと生物は煮え、海面は上昇する。地球の肺は切り取られる。なのに、今まで危機に緊急性がなかったという理由で法がそれを許す。人間のスピードにおける緊急では手遅れだ。法律は樹木のスピードにおける緊急性を判断しなければならない」(※1)(p662)。

     私たちが生きているこの世界とは何か。世界はすでに限界を迎えつつあるのではないか。しかし、それは何にとっての、どんな限界なのだろうか?この小説は、それらの問いについての一つの見方を提示してくれる。そして、その見方とは、私たちの理解の範囲に基づくものではなく、私たちの理解の外側に存在する物語に基づいているのである。

    ※1 「緊急」「緊急性」の原文にはそれぞれ傍点が振られている

    (リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』木原善彦訳、新潮社、2019年)

  • シンボルスカとの何度目かの出会い(2024/6/21)

     ヴィスワヴァ・シンボルスカ(1923-2012)は、ポーランドに生まれた詩人で、1996年のノーベル文学賞受賞者でもある。はじめてシンボルスカの名前を知ったのは、大学を卒業する年に、ある人から贈られた谷郁雄のエッセイ集『日々はそれでも輝いて』(ナナロク社、2011年)を読んだからだった。その中に、シンボルスカについての文章があった。その時の私は、シンボルスカの名前を知り、そのまま、シンボルスカの詩集を開いてみることもなく通り過ぎた。にもかかわらず、シンボルスカという名前は不思議とあたまから離れなかった。

     その後、大学を卒業してすぐに、偶然開いた須賀敦子の本の中に、シンボルスカについての文章を見つけた。須賀敦子は、あるとき、友人から「一枚のふしぎな写真」を受けとる。その写真の中にいたのが、「ちょっと当惑したような深い表情で」テレビに映っていたシンボルスカであり、須賀にはそんなシンボルスカが「ずっとまえから知っているなつかしい友人に思えた」という。後に、シンボルスカの詩集を読んだ須賀はこう書いている。「シンボルスカは、自由自在でやさしい預言者を思わせる。写真の予感は当たっていた」(「写真の予感に導かれて」『塩一トンの読書』河出書房新社、2003年)。私もシンボルスカという人に会ってみたくなった。

     さらに、それから数か月も経たないうちに、書店をふらふらと歩きまわっていたところ、『シンボルスカの引き出し』(港の人、2017年)という本に出会うことになる。この本には、作家であり、ポーランド文学翻訳家である著者のつかだみちこが翻訳したシンボルスカの詩と、シンボルスカの死を悼んで記された追悼文が収録されていた。つかだみちこは、シンボルスカの詩「可能性」から「引き出しが好き」というフレーズを抜き出しながら、シンボルスカ自身にも、一般的に伝えられている「非常に控えめで質素な人」という一面とは別のさまざまな面があることを、自身のポーランドでの体験やシンボルスカとのかかわりから描き出している。

     最近になって、韓国の詩人、キム・ソヨンのエッセイ集『奥歯を噛みしめる 詩がうまれるとき』(姜信子監訳、かたばみ書房、2023年)という本を読んだ。その本自体は、半年ほど前に買って、少しだけ読んだ後、部屋の本棚に眠っていたものだ。初夏の風が吹きはじめた頃、突然その本が読みたくなって、本棚からとり出し、眠るまえの時間、一週間ほどをかけて読んだ。その中にも、シンボルスカの詩について書かれた章があった。キム・ソヨンは、むかし、ヒマラヤ登山中に、少しでも荷物を減らそうと、リュックサックに入っていたシンボルスカの詩集をロッジの本棚に寄贈して帰って来たという。その後、詩人はシンボルスカに出会い直し、次のようなことに気付く。

    「もしかするとシンボルスカの辞書には、「ありきたり」という言葉自体が存在しないのかもしれない。なにごともありきたりでないという前提の中で、具体的な詩語が生まれるからだ。ありきたりとありきたりでないこと、大切なことと大切でないこと、役立たずと役立たずでないこと、美しいことと美しくないこと、こんな区別をせずにいることが、彼女の特別さだ」

    キム・ソヨン『奥歯を噛みしめる 詩がうまれるとき』姜信子監訳、かたばみ書房、2023年

     シンボルスカがノーベル文学賞を受賞した1996年、私はまだこの世にいなかった。そして、私がシンボルスカを知ったとき、シンボルスカはすでにこの世にいなかった。でも、今、シンボルスカの詩は、何度かの偶然と出会いを経て、私の中にある。

     1997年に日本で翻訳出版された詩集『終わりと始まり』(沼野充義訳、未知谷、1997年)の巻末には、シンボルスカのノーベル文学賞記念講演が収録されている。その講演の中に、こんなことばがある。

    「世界ーーわたしたちはその巨大さと、それに向き合ったときの自分の無力さに怯えたとき、世界について何を考えるでしょうか。わたしたちは個々の存在の苦痛に対して、つまり、人間や、獣や、そしてひょっとしたら植物の苦痛に対してまでもーーというのも、いったい植物が苦痛を感じないなどと確信を持って言えるものでしょうかーー世界が無関心であることにひとく落胆させられます。わたしたちは、星々の放射する光に貫かれた、世界の広々とした空間について何を考えるでしょうか。その星々のまわりには、すでにいくつもの惑星が発見され始めていますが、いったい、それらの惑星はすでに死んでいるのでしょうか、それとも、まだ死んでいるのでしょうか」

    ヴィスワヴァ・シンボルスカ『終わりと始まり』沼野充義訳、未知谷、1997年

     私自身、これまで、なかばあきらめるような思いで、世界の終わりにばかり目を向けてきた気がする。しかし、終わりを見つめることは、始まりを見つめることでもあったのかもしれないと、シンボルスカのこのことばを再び聞いたときに考えた。

     「未来」と言うと

    それはもう過去になっている。

    「静けさ」と言うと

    静けさを壊してしまう。

    「無」と言うと

    無に収まらない何かをわたしは作り出す。

    †

    ※1 本文中で傍点が振られている箇所を、ここでは太字に変更した

    ※文中では、傍点の代わりにアンダーラインを使用した

    参照文献

    谷郁雄『日々はそれでも輝いて』ナナロク社、2011年

    須賀敦子『塩一トンの読書』河出書房新社、2003年

    つかだみちこ『シンボルスカの引き出し』港の人、2017年

    キム・ソヨン『奥歯を噛みしめる 詩がうまれるとき』姜信子監訳、かたばみ書房、2023年

    ヴィスワヴァ・シンボルスカ『終わりと始まり』沼野充義訳、未知谷、1997年

    ヴィスワヴァ・シンボルスカ『瞬間』沼野充義訳、未知谷、2022年

  • 答えのない問いを問いつづけること/『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』書評(2024/6/14)

     この本は、さまざまな「彼女たち」が、戦争の時代をどのように生きたのか、28章にわたる短いエッセイをまとめたものである。「彼女たち」のほとんどは、すでにこの世を去った死者である。その中には、ヴァージニア・ウルフやシルヴィア・プラスなど、多くの人々がその名前を記憶しているであろう存在から、「ラジウム・ガールズ」や「ヒロシマ・ガールズ」など、一人一人の名前が明かされることさえ困難な存在まで、生き方も、人生も、それぞれに異なる人々がいる。

     「彼女たち」一人一人が私たちを引きつけるのはもちろんだが、それとおなじくらい、私はその、両手でも数えきれないほどの「彼女たち」をこうして呼び出さざるを得なかった著者・小林エリカに引きつけられる。小林は、「彼女が生きていたとしたら」と問いながらも、「けれど私は、それをわからないし、それをわかりえない」と書く(「いまここに広がりゆくささやきよ!小林エリカ『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』自著解題」webちくま)。つまり、小林は、死者を代弁することが不可能であることを知りながら、それでも、死者たちがその目で見た世界を問いつづけている。それは、答えのない問いである。

     たとえば、小林は、ヴァージニア・ウルフがかつてポケットに小石を詰め込んで入水自殺したウーズ川を訪れる。その時に見たウーズ川は、川底の石が見えるほどに水位が低かったという。さらに小林は、ウルフの足跡をたどりながら、ウルフがかつて、家のすぐそばに落とされた不発弾を見ながら「あと10年欲しかった」と書いたこと、そう書いてから半年も経たないうちにウーズ川へ向かったことについて考える。ウルフがコートのポケットに小石を詰め込んで家を出た日のことを繰り返し記憶する。

     この本にとりあげられている「彼女たち」は、女性であることや、生まれた国や生い立ちを理由に抑圧され、無視され、時に忘れ去られてきた。しかし、小林は、「彼女たち」を単にそのような歴史的抑圧の対象として捉えるというよりも、そのような事実を踏まえつつ、抑圧と忘却の嵐の中で、ささやくことをやめなかった存在として捉えているように思う。小林は、嵐の中にも彼女たちのささやきが存在していたことを確信する。その確信は、ながい時間をかけて、しかし確実にやって来たものだろう。

     この本の中で、私がもう一つ心引かれるのは、それぞれの「彼女」について書かれた文章の中に、ごく自然に、導かれるようにしてまた別の「彼女」があらわれている点だ。それぞれのページは奇妙な連続性をもっている。たとえば、霊媒師であるエウサピア・パラディーノの交霊会に参加していたのは科学者マリ・キュリーだったし、メイ・サートンの一家が第一次世界大戦中に亡命したのは、エミリー・ディキンソンが暮らしていたのと同じ土地であるマサチューセッツ州ボストンだった。それらは、無理に提示しようとしたつながりではなく、書いていくうちに、著者自身とっても思いがけないかたちであらわれてきたものであるように見える。そして、そのことは、それぞれに異なる生き方をした「彼女たち」のささやきが、他の無数の「彼女たち」のささやきと呼応していることを想起させる。 


    「そもそも人生に、間違いなんてものはあるのだろうか。たとえそれが「悪」だと罵られようとも」

    小林エリカ 2024『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』筑摩書房、p78

     小林のこのことばには、「天才」であるアルベルト・アインシュタインの子を産み、学問を諦め、相手からの一方的な離婚を突きつけられてその示談金を受け取ったミレヴァ・マリッチを「悪」だとした男性たちとは全く別の価値観のようなものがある。あるいは、こうも言えるかもしれない。私たちが使い古し、すでに機能不全に陥った価値観それ自体をいちから点検し、場合によっては手放したり、新しいものに取り替えたりさせるための力をこのことばは持っている。

     答えのない問いを問いつづけること。そのこと自体に、今、私たちがこの時代を生きていくために必要な何かがあるのだと、この本は語っているようにも思える。美しい装丁と、それぞれのエッセイの扉にあらわれる、著者自身によって描かれた「彼女たち」も魅力的である。

    (小林エリカ 2024『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』筑摩書房)

  • 世界は物語に満ちている/追悼ポール・オースター(2024/6/7)

     ポール・オースター(Paul Auster)をはじめて読んだのは数年前のことで、大学生活もなかばを過ぎようとしていた頃だったと思う。『ムーン・パレス』(1997)からはじまり、『孤独の発明』(1991)、『鍵のかかった部屋』(1993)、『ガラスの街』(2009)などを何かにとりつかれたように次々と読んだ。

     オースターの小説の中でも私が好きなのは『ティンブクトゥ』(2006)だ。この小説は、犬であるミスター・ボーンズの視点から語られるが、柴田元幸が「訳者あとがき」で書いているように、「犬が視点的人物であることを作者が過度に面白がったり、それをネタにして読者を愉しませようと過度に努めたりしていない」(p204)。ミスター・ボーンズと、長い間その「飼い主」であり、死をまえにした放浪詩人・ウィリーとのあいだには、認知する世界や身体的な差にもかかわらず、共通の場所「ティンブクトゥ」がある。

    この何週間か、ウィリーからその話をさんざん聞かされていたから、来世というのが実際にある場所だとミスター・ボーンズは信じて疑わなかった。そこはティンブクトゥという名であり、ミスター・ボーンズが理解する限りどこかの砂漠の真ん中にあって、ニューヨークからもボルモチアからも遠い、ポーランドからも、一緒に旅を続けるなかで訪れたどの町からも遠いところにある。あるときウィリーはそこを「霊たちのオアシス」と呼び、またあるときは「この世界の地図が終わるところでティンブクトゥの地図がはじまる」と言った。(『ティンブクトゥ』p52-53)

     「ティンブクトゥ」はマリの地名だが、英語では「どこか遠い所」、「地の果て」などを意味する。この意味において「ティンブクトゥ」は実際には存在しない場所、ウィリーの幻想にすぎないが、それは、ミスター・ボーンズと共有されることによって形をもつ。ミスター・ボーンズは、ウィリーが死んだ後何度も夢を見て、その中でウィリーと話をする。ミスター・ボーンズは、ウィリーはティンブクトゥに行ったのだと信じ、自分もそこに行きたいと願う。そして、これらの夢や幻想が、ミスター・ボーンズに旅を続けさせる。ウィリーと話をすること、ウィリーと一緒に過ごした時間を思い出すこと、つまり「ティンブクトゥ」を思うことこそが、ミスター・ボーンズを「ティンブクトゥ」へと導くのである。

     オースターの作品の多くは、オースターが愛したニューヨーク、特にブルックリンが舞台になっている。その中の一つである『サンセット・パーク』(2020)は、誰かに貸してしまったまま、今は私の手元にないが、好きな小説だ。生きる場所を失い、社会から見捨てられた若者たちが誰にも見つからない場所で一緒に生活する様子には共感できたし、何よりも、問題が解決したり、状況がよくなったりするわけではない、しかし物語が続いていくことを思わせるような結末が記憶に残っている。

     オースターは、いわゆる小説だけでなく、ラジオ番組のために全国から募った実話を編成した『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』(2005)、幼少期からの回想録的な側面の強い『冬の日誌』(2017)『内面からの報告書』(2017)、書くことにまつわる話を中心としたエッセイ『トゥルー・ストーリーズ』(2004)など、実話を書き記すことにも深い関心を抱いていた。

     『トゥルー・ストーリーズ』の「あとがき」によると、オースターは、インタビューで「どうしてそんなに実話に興味を持つのか?」と問われた際、「きっと僕は、『現実の成り立ち方』ともいうべきものに心底魅了されているんだと思う。つまり、物事が実はどうやって起きているのか。人生の出来事がどのように生じるのか。そして、これは僕がいつも感じることなんだが、新聞やテレビでは、さらには小説でも、物事の真相が歪められているんじゃないか。現実が持っている、不思議で、意外な本質に、本当に向きあってはいないんじゃないか」と語っている(『トゥルー・ストーリーズ』p264-265)。その言葉のとおり、この本には、一見関係のないように見える物事と物事の不思議な繋がりが、オースター自身の体験をもとに書き記されている。人類学を学びはじめるまえの私が、ピエール・クラストルの名前を知ったのもこの本を読んだからなのだった。

     オースターは、世界が物語に満ちていることをおしえてくれる。物語の中ではどんなことも起こり得る。つまり、オースターの言う「現実」は、複雑で、予測不可能で、目には見えない、流動する無数の物事から成り立つ物語そのものであると言えないだろうか。不確かで不鮮明な現実は、常に、何かに縛り付けられることのない無限の可能性をもっているのである。だから、物語を信じることは、私たちが願う現実へと私たちを導いてくれる。少なくとも、オースターの物語を読んだあとでは、そう思わずにはいられない。

    この文章に登場したオースターの著作※カッコ内はすべて邦訳刊行年

    『ムーン・パレス』(柴田元幸訳、新潮社、1997年)

    『孤独の発明』(柴田元幸訳、新潮社、1991年)

    『鍵のかかった部屋』(柴田元幸訳、新潮社、1993年)

    『ガラスの街』(柴田元幸訳、新潮社、2009年)

    『ティンブクトゥ』(柴田元幸訳、新潮社、2006年)

    『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』(柴田元幸ほか訳、新潮社、2005年)

    『冬の日誌』(柴田元幸訳、新潮社、2017年)

    『内面からの報告書』(柴田元幸訳、新潮社、2017年)

    『トゥルー・ストーリーズ』(柴田元幸訳、新潮社、2004年)

  • 「たましいの遺産」/『新装版 ペルーからきた私の娘』書評(2024/5/31)

     『ペルーからきた私の娘』は、藤本和子が1975年から約10年近くのあいだ(※1)に、ニューヨーク、東京、カンサス、イリノイ、とさまざまな場所に生きながら、「どこに発表しようというはっきりした意図を前提にしないで」書かれたエッセイをまとめたものである。初版は1984年に晶文社から刊行されている。

     藤本和子は、リチャード・ブローティガンの作品を中心に翻訳者として広く知られているが、同時に、藤本自身が「なんらかのできごとや体験そのものと、それについて〈記す〉こととの間にある遠い距離について、わたしは、一人の作家のおこなった〈記す〉という営為を、もう一度べつの言語に置き換えるという作業を体験することで理解するようになったのではなかったか」(p230)と語っていることからもわかるように、自ら〈記す〉人でもある。

     この本に収められたエッセイは、書かれた場所も、時期も、テーマも異なっているが、先にも述べたように、既成の場や組織から紙面やテーマを与えられたのではない、それぞれの「できごとや体験そのもの」が藤本にそれを〈記す〉ことを要請したという点において共通している。表題作の「ペルーからきた私の娘」も、「白樺病棟の「高砂」」も、「かげりもない、パネイの夜ふけに」も、それぞれの偶然ともいえる出会いが藤本に〈記す〉ことをさせたのだと想像できる。

     さらに、これらのエッセイには、藤本が長い時間をかけて行ってきた、他者の声を「聞く」という行為が通底している。

     たとえば、「ペルーからきた私の娘」に登場するのは、生後3日で藤本のところへやってきた娘・ヤエルだが、藤本にとってヤエルは、あくまで「わたしとは別の一人の人間」(p13)なのである。生まれてまもないヤエルは、もちろんことばを放たないが、藤本は、ヤエルを迎えに行ったペルーの病院で、突然森崎和江の文章の一部を思い出し、病院を出たヤエルとともにペルー女性解放運動の指導者に会いに行き、「民俗学考古学博物館」へ行き、ヤエルと関係を結ぶ時間の中で聞こえてくる声と沈黙に耳をすます。

     それは、「白樺病棟の「高砂」」で藤本が「オキヤマさん」の沈黙を浮かび上がらせていること、「オムライス」で「ポール・ラドゲイト」の断片的に語られる過去と対話を試みていることとも繋がるものがあるだろう。

     なぜ、藤本和子は「聞く」ことをやめなかったのだろうか。『塩を食う女たち』の「あとがき」の中で、藤本はこう書いている。

    閉じこめられたくない、という気持を抱いてわたしは暮らしてきたと思う。[中略]意識をくり返し脱皮し、ひろびろと視野を開いて、生の実質をつかみたいのだと感じてきた。他者のたたかいを見ることは、とりわけ生の実質を語る力を持つたましいの遺産を受け継いできたかにみえる、これらの女たちの言葉に接触できたことは、それについて多くの手がかりを与えてくれた。(p251-252)

     『ペルーからきた私の娘』の最後におさめられた文章には「たましいの遺産」というタイトルがつけられている。「たましいの遺産」は、作家であるトニ・ケイト・バンバーラのことばに「強くこころを動かされて」、その母であるヘレン・ブレホンに藤本が会いに行った際の聞き書きをもとに書かれたものだ。ヘレン・ブレホンについて藤本はつぎのように言う。「ヘレンはある種の内なる力、内なる炎のようなものに支えられて、頭をたれずに生きてきた女性である。差別も貧困も年齢もついに打ち砕くことのできなかった高潔と尊厳と希望に支えられてきた女性である。ひろびろしたこころを持って、かぎりない自由のたましいに導かれてきた」(p226-227)。

     そのような「たましい」は「遺産」となってトニ・ケイト・バンバーラに、藤本和子に受け継がれている。作家となったトニ・ケイト・バンバーラは、藤本和子にこう語った。「わたしがしようとしているのは、ある種のヴィジョンを死なせずにおこうということ。わたしたちを生きのびさせてくれたヴィジョンを。それを手放すわけにはいかないのだから。でもそれと同時にね、わたしは未来のヴィジョンを投げかけたい」(『塩を食う女たち』p154)。

     なぜ聞き続けるのか。誰の声を聞くべきなのか。聞くことができるのか。これらの問いに応答するための、自分のことばを探すことこそが、「聞く」ということでもあるのだろう。藤本和子の、あるいは藤本和子を通して語られることばはいま、まぎれもなく私を生かしている。その、一人の人間を生かし得る「たましいの遺産」を、私もまた次の世代の誰かに受け渡すことができるだろうか。

    ※1 「あとがき」を参照した。

  • 後ろを見ながら前にすすむ/西戸崎で本屋をすること(2024/5/23)

     先日、友人が福岡にあそびに来た。友人はお店に来て、長いあいだ棚を見てまわり、本を選んでくれた。それだけでも嬉しかったが、一緒に船に乗って博多港まで来てくれると言う。西戸崎の渡船場から船に乗って、二人で博多港に向かった。

     西戸崎から博多までは市営渡船で15分の距離である。海の上から見ると、ふだんから歩きまわっている街が、いつもとはちがって見える。小さい頃、朝起きるときや、夜眠るまえに、自分の住んでいる家がまったく未知の場所に思えたように。船が岸から離れていくにつれて、私は知らない国を旅している気になった。湾岸にそびえるマンションも、乗馬クラブも、水族館も、どんどん遠くなっていく。

     鈍色に輝く博多湾を渡る。私たちは船の2階に座った。ちょうど、船の進行方向とは真逆、つまり自分たちが後にしてきた方を向いて、船がはき出す白い泡を見ながら、博多港に向かっていた。私は、ベンヤミンの「歴史の天使」を思い出しながら、後ろを見ながら前にすすむとはこのようなことなのだろうかと思う。遠ざかっていくとはいえ、肉眼で見ることのできる距離にある西戸崎の街を眺める私を乗せて、船はやがて博多港に到着した。

     しかし、この場所も最終目的地ではない。博多港から自転車に乗って、天神の街を颯爽と横切る。5月の天神は、若葉をつけた木々の音と、行き交う人々のさざめきに満ちていた。木漏れ日が美しい。活気にあふれている。歩いているうちに、さまざまなイメージが浮かんでくる。たとえば、5月の街の緑色は、インドネシアのバリで見た木々の緑のイメージと重なる。いくつもの言語が混ざり合って聞こえてくる感じはソウル、あるいはニューヨーク。私がそうするよりずっと前に5月の街中を歩いた人々、そしてこれから歩く人々。

     私が今歩いている街が、ここではない場所や、異なる人々との接続点になる。その瞬間、次々に浮かんでくるイメージは現実そのものになる。私たちを生かすのは、このような現実ではないだろうか。つまり、私たちが生きる現実は、単層的、単線的なものではなく、積み重なったり、平行して存在したりするさまざまな現実とかかわり合いながら、常に変化しつづける現実であると言うことはできないだろうか。

     もちろん、現実全体を捉えることは不可能かもしれない。しかし、今ある現実の外側にも現実があるのだと認識することは可能だと思う。自分が暮らす街から船で遠ざかっていくときに私がそう感じたように。後ろを見ながら前へ、まったく未知の世界へすすんでいくように。私たちは、私たち自身が捉える現実を生きていかなければならないのだから。いや、生きていくことができるのだから。

     天神からさらに博多駅に向かって歩く。那珂川を越えて、キャナルシティを通過し、本などを見ながら駅の中を歩きまわった後、2泊3日にしては荷物の少ない友人と手を振って別れた。

  • 福岡アジア美術館と『世界の果て、彼女』(2024/5/17)

     福岡・中洲の博多リバレインビル7階に福岡アジア美術館はある。小さい頃、よく母に連れられてこの場所に来ていた。その頃の私は、ここがどんな場所なのかあまり理解していなかったように思うが、なんとなく、日常の中で凝り固まったものとは違う、はるか古代から絶えず行き交う何かがこの場所に息づいていることを知っていた。そこに来ると不思議と心が静まった。

     中学校に上がってから、母と出かけることも少なくなり、いつの間にかアジア美術館に行くこともなくなった。中学生だった私は、部活が休みの日には、家の近所ばかりうろうろしていたし、高校でも、勉強やさまざまな忙しさにかまけて、自分の外にある世界に目を向けようとしなかった。大学では、遠い未知の国に興味を持ったが、自分が生きるアジアのことは、わかったつもりになっていたのか、ことばすらまじめに学ぼうとしなかった。

     私が韓国のことばを日々の中で実際に読んだり聞いたりするようになったのは、大学の学部を卒業してからのことで、そのきっかけとなったのは音楽だったが、時間をかけながら、少しずつ文学にも触れる機会を得た。

     その過程で再びアジア美術館に足をはこぶようになった。コレクションや展示を見に行くことが目的の日もあったが、ふだんは、売店横からアートカフェスペースにまで広がる膨大な蔵書を手にとることが目的だった。そこには、これまで福岡アジア美術館で開催されてきた展示のカタログや、アジア各国の歴史、美術、食、言語などに関連する本、旅のガイドブックなどがびっしりと並んでいた。

     それらの書物は、豊かな文化の往来だけでなく、私たちの歴史的責任を提示してもいる。そして、それらの書物が語っていることと作用し合いながら展示を続け、さまざまな場所から訪れる人々を受けいれるアジア美術館という場所は、他者との困難な対話の中で、その困難をまえに何もできなくなるのではなく、困難さに足をとられながらももがき続けるという点において、無数の方法で、いくつもの通路を提示しているのではないかと考えるようになった。

     だから、キム・ヨンスの『世界の果て、彼女』(キム・ヨンス 2014『世界の果て、彼女』呉永雅訳、クオン)にアジア美術館が出てきたときも、単なる偶然には思えなかった。この短編集の中の「君が誰であろうと、どんなに孤独だろうと」という作品において、アジア美術館は、主人公の「私」と「私」が評伝を書くことになった「彼」、そして「彼」が生きているときにその隣にいた「キム・ギョンソクさん」を結びつける場所として描かれている。「私」の個人的な痛みは、すでにこの世にはいない「彼」が写真に撮ろうとしたものを見つめようとすること、自らのルーツを探す「キム・ギョンソクさん」と対話を続けることの中で、個人的な痛みを越えて、いつしか他者の痛みと幾重にも結びついた痛みへと変化していく。

     それだけではない。小説の中にアジア美術館という場所が書きこまれることによって、私自身の痛みも、「私」や「彼」、そして「キム・ギョンソクさん」と切り離せないものになった。小説と現実、韓国と日本、過去と現在、それらの間には越えることのできない深淵が存在するが、私が生きる現実が小説によって描かれた現実と接続したように、アジア美術館が無数の深淵を抱えたままそこにあり続けるように、複雑に絡み合う物語の中で、他者とともにある方法は私たちが想像するよりもずっと豊かなのではないだろうか。

    「僕は、他者を理解することは可能だ、ということに懐疑的だ」

    「著者の言葉」(キム・ヨンス『世界の果て、彼女』呉永雅訳、クオン、2014年)

    (キム・ヨンス『世界の果て、彼女』呉永雅訳、クオン、2014年)

PAGE TOP